環境を恨んではいけないのか 善人

 僕は他責思考だと思う。自責の人と他責の人って結構キッパリ分かれていると感じていて、恵まれない環境でも自分なりに生きている人もいるし、最近見た例でいうと、超進学校に進ませて貰ったのに「海外に留学しづらい」という理由で親にずっと文句を言っている高校生がいた。

 僕は手帳2級だし不細工だし片親だし、一般的に見てハンデを背負っていると思う。だから結構他責をする。具体的に言うと、女を叩きまくる。別に女じゃなくても「岸田政権」でも「資本主義」でも「親」でもなんでもいいんだけど、精神障害の女性が彼くんとぬくぬくしていると、猛烈に憎悪が湧いてしまう。近親憎悪だと思う。「俺も女に生まれてたらああなれたのに」という嫉妬に駆られてしまう。ただ、僕の立場でも不平不満を言わずに生きている人なんかいくらでもいると思う。

 「まわりや環境のせいにしても意味ないよ」というのはド正論だ。本当にそう思う。「幸福」という定規をあてがうと、「周りのせいにして努力を怠る」というのは最悪の手だ。周りに嫌われるし、努力しないので人生が好転しない。僕は実際に周りに嫌われた。そりゃ女叩きしてれば嫌われる。

 ↑こんなこと誰でも分かっているんだけれど、実際に性格を変えるのは難しい。自分の行為をモニタリングして、「癖」が出そうになったら控えるというのを何千回も繰り返す必要がある。「もう、不満は言わない」という本に載っていた話だが①不満を言う度に片方につけているブレスレットをもう片方の腕につけかえる②28日間1回もブレスレットをつけかえなかったら成功、というキャンペーンをしたら、大体半年か1年ぐらいでチャレンジに成功する人が多かったらしい。

 他人を見ると「プラグマティックに考えようよ」と思う。実際に、その行為で自分が「幸福」になれるのか、考えてから行動したい。弱者男性を名乗って女や社会を叩いても、幸福になれない。その時間を使って、(僕の場合)思想書や坐禅をした方が、余程有意義に過ごせる。

 「正直者が馬鹿を見るよね」というのが口癖だった元カノに浮気された時、「言ってることとやってることが違うじゃないか」と言ったら「違わないよ、正直者が馬鹿を見てるじゃん」と言われたことがある。
 戦争では善人から死んでいくと言われるが、善人になることって損することなんだろうか。沢木興道老師も「迷いとは得すること、悟りとは損すること」と言っていた。
 じゃあお釈迦様って損ばっかしていたのかと言われれば、絶対にそんなことはない。「善人」になることの最大のメリットは、「善友」が得られることだと思う。類は友を呼ぶ。実際に、インターネット空間では、同じような倫理観の人間が固まっているように思う。僕のTwitterのフォロワーは結構バリエーションがあるが、ヤリマンの嘘つきには同じような人間が集まっているし、LOLばっかやってる奴には似たようなのが集まっているし、良心的な人には良心的なフォロワーが多い。

 善人に囲まれている人は、幸福だと思う。

 坐禅をしていると、自分に中心は向いていた矢印が、徐々に少なくなっていく。「頭の中の自分志向の欲望の塊」みたいなのが徐々に薄くなっていく。自分が幸福になるために、善人になりたい。

 

 

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