引きこもり 外部がない

 ハイデガーの存在論を植民地主義だとして批判したレヴィナスは、「顔」という概念を導入することで、存在論に「風穴」を開けようとした。ただこの「顔」はお涙頂戴でしかない。顔という「外部」が現れることによって、例えば死にかけの乞食がいることで、その顔から倫理が生まれるというのだが、東京では乞食が死にそうでもみんなスマホで写真を撮るだろう。近代というのは「他者」を欠いている。デカルト的な発想から、「他者」や「外部」は出てこない。結局自己と「同質」の他我を見出すだけである。フッサールが「感情移入」という苦肉の策を使わざるを得なかった所以である。

 民俗学的にいうと、「外部」というのは「ハレ」だろうが、ハレは死んだ。終わりなき同質の日常をただ生き続けることしかできない。国木田独歩は「驚くことができない」ことに苦しんだが、人生の全てが「内部」で行われているからだ。

 もともと、外部などなかったのかもしれない。シェイクスピアも荘子も万葉集も、人生は夢だと言っている。夢に外部はない。

 問題はこのすべての「内面化」「モノローグ化」が中途半端であるということだと思う。万物同根、主客一如、全部を丸のみにする東洋的営みは、外部への希望を打ち捨てて、絶望の内に解脱する。

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