アフォリズム

 僕はアフォリズムが好きだ。ニーチェ、シオラン、パスカル、ロシュフコー、ヴェイユ、芥川…etc。僕は、人生など体系化できるものではないと思っている。その瞬間瞬間に真理があり、真理の伽藍を建立することはできない。生とは「これ」であり、それを表す言葉が短ければ短いほど、真理を語っている。

一、人間は「誠実」に生きなければならないという原罪がある。ただし誠実に生きられる人などいないので、「赦し」が必要となる。

二、己の罪悪に不感症であるのが、一番の病気だ。

三、人生に意味などない、というところから出発していない思想は、全て遊戯にすぎない。

四、「一歩進んだ」のが、「信仰」である。

五、真理は書物の中にはない。ささやかなもの、もしくは無限なものに存在する。

六、自分に自信があると公言する人は、自分のことを見誤っている。

七、不誠実さへの、薬。坐禅、慰め、自殺。

八、真理に従う必要はない。真理が人間に従う。

九、「死者」というのは「まなざし」である。死者は充満する。いい意味でも悪い意味でも。

十、虚無という暗い大海に漂っている人、懐疑という嵐に翻弄されている人は、自分自身から逃れることができない。

十一、人生の意味というのは「他者へ尽くすこと」この一点である。

十二、信仰というのは生きる意味を与えるものではない。生の無意味さへの慰めである。

十三、母親が死んだ時に祖母が言った言葉。「なんでこんなことになってしまったんだろうねえ」それは母親が「産まれた」からだ。

十四、自分は狂っていないと豪語する人が、一番狂っていることがよくある。

十五、ダーウィンの進化論………人間は遺伝子の乗り物である。そして遺伝子に目的はない。この真理を通過していない人間は、唯物論の「恐ろしさ」を十二分にしっていない。ダーウィンの進化論を直視しては、1週間と生きられる人はいないだろう。

十六、引きこもりだけが分かる真理というものもある。孤独は意味を産まないが、価値を産む。

十七、姉に子供が生まれた。これほど明瞭に反出生主義を論駁したものがいただろうか。

十八、人生は死ぬのにも値しないといって、頭を打ちぬいたダダイスト。彼の意識は常に覚醒していた。

十九、ユートピアは、過去か未来にしか存在しない。無邪気なあの頃か、来るべき共産主義。現在はいつも、地獄である。

二十、僕の意識は薬でぼんやりとしている。自殺をするのは、きまって醒めきった人だけだ。「ぼんやり自殺をする」、こいつは恐らく何か企んでいる。

二十一、答えはなかった。正解はなかった。ただ、「声」があった。

二十二、大衆は、終末論的言説を好む。イエスが終末を説いてから、二千年も経っているのに。おそらく、人は、己の死のあとの世界が許せないのだろう。世界との心中。

二十三、畜生は、自分の死ぬことを知らない。この世の大多数の人も、自分の死ぬことを知らない。

二十四、承認欲求というのは「自分が誰なのか教えてくれ」という叫びである。

二十五、「思想」や「科学」にかかずらってはいけない。「死神」というおとぎ話のほうが真理を開いてくれる。

二十六、恥の多い生涯を送ってきました——————過去形ではなく、現在進行形で書くべきである。

二十七、僕が今までの人生でしてきたことと言えば、一つだけ、死ぬ準備である。

二十八、人間は動物に嫉妬を覚えるものだし、動物は植物に、植物は鉱物に嫉妬を覚えるものだ。

二十九、愛は手段ではなく、目的である。人間の道具化から、全ての愛の堕落が始まる。

三十、プラトンは、イデアを垣間見ていたに違いない。恋人を通じてイデアを想起できない恋愛は、堕落している。

三十一、恋愛と道徳と宗教は一致しない。どれか一つしか選ぶことはできない。決断。

三十二、一切は許されている—————誰に?

三十三、「目的」を、「自己」から、他者や神にすげかえる。聖者は、どんな手品を使っていたのか。

三十四、教条主義が狂気であるなら、全ての人間は狂人である。教条を持ってない人間など存在するだろうか。魔女狩りをしていた中世の人と、知性を誇っている現代人とは、何も変わらない。悪の陳腐さ。

三十五、沈黙。それだけが、生きるに値するスタイルだ。ところで、釈迦牟尼の牟尼とは、沈黙を守る人という意味だ。

三十六、恋愛の本質は、想起である。過去だけが永遠であるから。

三十七、自動人形に愛されても、惚れ薬を使った女に愛されても、男は満たされない。相手の「自由」によって愛されるのでなければ。だが、その自由がその男を不安にさせる。「彼を愛さない自由」を女は持っている。お互いの生殺与奪権をいつ使うかが、このゲームの勝敗を決める。

三十八、全人類が有罪、全人類が無罪、どちらかである。いくらかの人間だけが有罪というのはありえない。僕は人類が、全員有罪であるほうに賭ける。なぜなら僕が罪人だから。

三十九、「僕」というのはユークリッド幾何学的な点である。経験的なものではなく、理念的だものだ。内容がなく、あるのは強度の形式である。

四十、当人以外、誰の眼にも触れなかった作品を、僕は「図鑑に載らなかった古代生物」と呼ぶ。図鑑に載れるように頑張っている人たちを、僕は軽蔑した。

四十一、思考は、無限すら内包する。ただそれよりも重要なのは、思考を抱擁する無限である。

四十二、身体は、自分の所有物ではない。身体が自分の所有物であるという幻想から、自殺する権利などという狂気が現れる。首を吊ろうとしている男の心臓は、いつもより速く鼓動をうつ。

四十三、「真理を、女のようなものだと考えてはどうだろう?」というニーチェの誘い。僕は、真理を母のようなものだと考える。

四十四、キルケゴールによれば、絶望を意識していない人が、一番癒されがたい絶望にいる。人間は、限りなく先鋭に絶望を意識するために生まれてきた。すなわち、神を信じるように。

四十五、虚無で酒を醸造する人間は、今すぐ自殺すべきだ。それを矜持と言う。

四十六、信仰にまで至らない絶望は、未熟な絶望である。てっぺんからつま先まで絶望に溺れている人間は、藁を掴む。

四十七、相対主義は、相対主義すら相対化する。相対主義は無限後退する。無限の先にあるものは、神しか知らない。

四十八、思想と洋服は似ている。僕は飾っている人間が一番嫌いだ。

四十九、言葉とは、「鳴き声」である。協力、敵対、誘惑、威嚇…etc。どんなに洗練された言葉でも、全ては動物的なパフォーマンスに過ぎない。

五十、真理に至る2つの道。すなわち、知性と意志。知性は挫折せざるをえない(挫折した数々の哲学者を見よ)。命の拍動こそ、真理に至る唯一の道である。

五十一、この生死は仏の御いのちなり。命の責任を、仏に預ける。自分の人生に無責任でいいというのは、僕にとって大いなる福音である。

五十二、近代の機械論は、アリストテレス的、キリスト教的な目的論を亡きものにした。けれど、究極的な無目的(無功徳!)は、垂直の聖なる次元を開く。

五十三、根拠の根拠は、神と愛だけだ。

五十四、虚無を見つめることは、死を見つめること。死を見つめることは、鏡を見つめること。鏡を見つめることは、自己を見つめること。自己を見つめることは、罪を見つめること。罪を見つめることは、神を見つめること。

五十五、人の見ていないところでする善行、見返りのない善行だけが、僕の潔癖症をかいくぐる。僕は、玄関に散らかっている靴を、誰も見ていないところで揃えることにしている。(もうこれで、全て台無しだ)

五十六、自己の罪悪は、自己だけでは絶対に知られない。

五十七、主義を持つと、人間の魂は汚れる。生活に、主義はいらない。これを無主義主義という。これが人間の救われがたさの一つだ。

五十八、救われがたい人間ほど、救われるべきである。これを大乗仏教では煩悩即菩提という。

五十九、世界を呪うというのは行き過ぎている。世界は呪うのにも値しない。世界は黒ではなく、透明である。

六十、「批評する自分」は一生批評されない。それを苦にして自殺した青年がいるらしい。彼には唯一つ、「赦し」が必要だった。誠実に生きようとする人間は、自殺をするか、赦されるかしかない。

六十一、羞恥というのは、己に対する唯一の健全な認識である。他者のまなざしのうちに自己が開示されるのが羞恥という認識であり、超自然的なまなざしの前で裸になることが、自己を見出すということである。

六十二、小鳥のさえずりに、アスファルトに咲く花に、超自然的なものを感じる。瞬間、命が充満するフィールドへ入る。ああ、生まれてきてよかった。よろず生きとし生けるもの 山河草木吹く風立つ波の音までも 念仏ならずと言ふことなし。

六十三、憧憬というものは、必ず失望を具す。「私が欲しかったのはこんなものだったのか」失望を、絶望を引き起こさない憧憬というのは、超自然的なものへの憧憬だけだ。超自然的なものを手に入れる(手に入れられる)ことだけが、永遠の歓喜を具す。

六十四、人間が睡眠時に夢を見る生き物でなかったら、哲学や宗教は今より薄味だったに違いない。

六十五、傲慢なものほど、死を恐れる。秦の始皇帝は、不死の薬を求めた。エジプト王は、ピラミッドを作った。謙虚なものほど、死を受容する。傲慢なものは、世界から遠い。謙虚なものは、世界に近い。王になってはいけない、神になってはいけない。ブッダになってはいけない。

六十六、知性の真の意義は、知性の限界を知ることである。

六十七、知性の限界を知ったものがすることは、自殺しかない。物理的な自殺。知性的な自殺=信仰。感性的な自殺=不条理への不感症。

六十八、人間が自殺する理由は一つしかない。即ち、自分自身であることの、疲労。

六十九、哲学者を「弁護士」と揶揄したニーチェ。思想を「弁解」だと言い切った原口。彼らはどちらも正しい。思想を持つ前に、思想とは何か?と問うべきである。思想とは、己の道徳の弁護である。思想とは、己の生き方の弁解である。

七十、植物の美徳は「無口」というところだろう。素直で、無口だ。薔薇が自分の美しさを喋りだしたら、魅力は限りなくゼロに近づく。

七十一、僕が神であったら、真っ先に「時間」というものを消してしまうだろうに。

七十二、真理を捕まえたと思っている人々は、自分が真理に掴まれていることを知らない。

七十三、現代人が哲学を嗜む理由は一つしかない。その「妖しさ」だ。

七十四、鈍感さという徳を大いに育てるがいい。それだけがこの世界に耐える唯一の方法なのだから。

七十五、罪がある。人を殺したこともないし、盗みをしたこともない。罪があることだけは分かる。

七十六、既に持っているものを欲望する道、賢者の道。
いまだに持っていないものを欲望する道、勇者の道。
仕向けられたものを欲望する道、愚者の道。
なにも欲望しない道、仏の道。
何を欲望すればいいか分からない道、思春期の道。

七十七、虚無という裁判官に、必死に弁解をしている人間。 悲しい哉、どれだけお喋りをしても、死刑は免れない。

七十八、「専門用語」を作り出す教祖達に幸あれ
造語を作ることは教団を作ることだ。

七十九、すべての詩は、サルの鳴き声の、比喩だ
すべての絵画は、クジャクの羽の、比喩だ

八十、発達心理学は、人間の人生がパロディに過ぎないことを証明しようと試みている

八十一、存在の無根拠性を、習慣というトートロジーで覆い隠すこと、すなわち生活

八十二、僕は呼吸をするのにも理由が必要な人間だった

八十三、言葉を吐く者は全て、母を求める乳児である。という精神分析家の神話は、恐らく正しい。

八十四、人生は、それ自体、悲劇でも喜劇でもない。その事実が悲劇的である。

八十五、最も荘厳な場面で、卑猥な言葉を絶叫すること。これが自意識である。

八十六、無垢な赤子の純粋な戯れ、などという幻想は捨てるべきだ。赤子は常に飢えて泣いているではないか

八十七、人生とはなぜかくも悲しいのだろう と書く者の満足気な表情 読む者の安心感

八十八、全ては(任意の言葉を入力)である

八十九、天井にいる、顔のように見える、木目模様が、明朗さの混じった悪意を吐き出す
「お前は死ぬ」

九十、孤独の「効用」「価値」「優越」を説く者は、芯からの寂しがりだということは明白ではないか?
真の信仰者は、自分の信仰を説明しないものだ

九十一、「詠み人知らず」それだけが尊敬に値する「名前」だ。

九十二、あらゆる言葉の「祈り」的性質。コンクリートが屹立する世界で、祈りは誰にも届かない。ここに「孤独」の深い意味がある。

九十三、全ての愛は「南無阿弥陀仏」の翻訳である。

九十四、恋愛とは「若気の至り」と「生活」のちょうど真ん中に現れる永遠である。

九十五、僕の人生には、全く毛が生えていない。

九十六、一切は空であるという智慧は、慈悲を導かない。釈迦は慈悲という非合理を犯した。だからこそ尊敬に値する。

九十七、醜さは喜劇で、美は悲劇だ。しかし誰の人生も悲劇であるから、不細工は無限に滑稽な悲劇である。

九十八、仏法が永遠なのは、仏法というのは畢竟「時間」だからである。

九十九、虚無主義を着込んでいる人間は、必ず「下心」がある。

百、政治は民衆の阿片である。

百一、恥じらいの閾値が低い人。愛すべき人。

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