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20200104 モラトリアム・エレクトリックギター

 遥か昔のこと。おむすびが転がったかと思えば、鬼が老人のこぶを取ったり着けたりして、桃は川を流れ、もと光る竹なむ一筋ありけっていた時代。
 それは僕が大学生だった頃で、青年期を蔑ろにしながら軽音楽サークルに所属し、低級の日々を謳歌していた。晴れやかなるキャンパスライフがそこにはあると盲目的に信じていた気持ちは、三ヶ月と保たなかった。地域で無理くりに参加させられた子供会のソフトボールですら、僕がバッターボックスに仁王立って、バントを構えても碌すっぽに擦りもしなかったのだから、僕にはチャンスを掴み損なう天賦の才があったに違いない。それとも、僕の野望を拐かす妖怪がいたのだろう。そんなことは露知らず、僕はしゃかりきになって入会書に署名した。周囲に一目置かれるべく、鼻息を荒くしてギターを弾き、演奏力の研鑚に励んだものだ。
 それが格好のいいものだと思い込んでしまったノータリンの己が憎い。

 僕のこの両の手が、初めてギターに触れたのは、ずぶずぶの陰惨に飲み込まれていた十五歳の頃だった。思春期ド真ん中で盛りのついた猿以下の僕は、「自分には隠された才能があるのだ。今こそ爪を磨く時だ」と突如奮起し、不遇な渡世を覆すべく立ち上がった。
「おお、うら若き蒙昧なる信徒よ。何を嘆く。その鬱血した暗黒のリビドーを昇華するのだ。ギターを弾け! そして、がなるのだ!」
 と、神は僕に啓示を与えた、ような気がした。
 実際のところ、女の子にモテたいという使い古しで普遍的な理由であったことは言うまでもない。更に言うまでもなく、そんな薄汚れの貪瞋痴で拵えた、浅ましき願いが叶うことはなかった。スクールバッグに忍ばせておいた音楽雑誌を思い出す度に辛酸の味がする。
 思い立ってからの僕の初動はエアシューターの滑り出しより速かった。持ち合わせの伝手を総動員した。母方の祖父の弟の娘婿の知り合いの友人が、これまた別の友人から譲り受けたエレクトリックギターの取り扱いに困り、持ち腐らせていると聞いた。僕は吉報を受け取ると、間に髪を容れずそいつの横流しを強請った。それから、僕とギターの邂逅はすぐだった。世の中は助け合いでできている。血筋を辿れば、皆アダムとイブの子なのだ。
 初めてギターを鳴らした瞬間の興奮を今でも憶えている。口吻から垂涎する程のエクスタシーだった。それは僕の中で鮮明に突き刺さっている。手の平に残った鉛筆の芯みたいに。アンプラグドで鳴らした真っ赤なモッキンバードは、平熱くらいに緩い音がした。チューニングもぶれまくりで、押弦も滅茶苦茶な不協和音が、僕の頭蓋をかち割って扁桃体をびりびりと痺れさせた。六本の狂ったハガネの振動は、正にエレクトリックな衝撃だった。それからの僕はギターの虜で、エモーションの赴くまま、BRUTALに弾き狂ったのだ。Fコードの挫折はなかった。クソを頭に乗っけるガキの僕はポップ・パンクとメロディック・ハードコアに大層ご執心だった。巻き弦以外の存在意義さえ知らなかったのだ。僕は「I wanna be the minority」の意味を曲解していた。マジョリティーの優位性を知らずにいたのだから、この時に僕の将来がうらぶれたものに決したも同然だった。

 そうこうして手に入れた、パンピーに毛が生える程度の技巧を武器に大学生活を謳歌してやろうと、薔薇色にしてやろうと、変速を最大にしたまま遮二無二になって漕ぎ出していた。
 僕の脳味噌の中はそれはもうサイケデリックなものだった。過去を過去として振り返れば、「どうやらこいつの頭には蛆が湧いているらしい」と断定する根拠がありとあらゆるところで露見していた。判事も裁定を下すのに右顧左眄する必要がない。閉廷までの最短距離を走っている。
「やい、そこの愚鈍なる僕よ。その膨らませている妄想も鼻の穴も股座の嶋大輔も今すぐに窄ませなさい。そして、資格をとりなさい。地方公務員を目指しなさい」
 と、懇切丁寧に未来への経路を案内してやりたい。デロリアンさえあれば、僕を諭すことなど余裕のよっちゃんイカだ。僕は夢見がちだが、僕の鼻っ柱は楊枝より細い。
 僕のサイケデリックな妄想といえば、開演一発、僕がEメジャーコードを力強く鳴らせば観客は沸き立っていたし、無限に続くアンコールにやれやれという顔をしながら再びステージに戻っていたし、僕のギターソロで失神をするファンがいたり、物販に顔を出してメロウイエローな嬌声をわざわざ浴びたり、フラッパーガールみたいなグルーピーをはべらしていた。ひどく野鄙な夢であった。理想は理想で終わりそうとは、ORANGE RANGEの言葉である。脚の生えた陰嚢が闊歩する様を見過ごす公安の優しさがとても痛い。新藤晴一氏の言葉を借りるのも忍びないが、小僧の頃にイメージした壮大な人生プランからは覆しようのない見劣りがあって、案外普通でもないし、大好きな幸せの種も手に入れていないのは一体全体どういった了見なのさ。僕自身の不徳の致すところです、と心が泣いている。僕は僕をシリスベルトで締め付けるのだ。

 現実を思い返せば、僕の妄想は具現化することも、それとニアミスすることもなかった。軽音楽サークルに所属している間、僕と恋仲になったネオテニーはいなかったのだ。ここまで寡を拗らせたのは、人間性の問題だと思う。
 僕は格好のいい自分を見せようと権謀実数を企てた。しかし、万策尽きるまではカゲロウが死ぬより早かった。1970年代製の国産安ストラトキャスターの配線をテレキャスターのそれに仕立て直し、Fender純正のピックアップを搭載した中途半端なギターを担いで「なんかちょっと変わった奴」を演出することが関の山だった。所詮、自身の妄執じみた拘りなど他人にはどうでもいいことだと気づけなかった僕の敗北である。
 ただ同軽音楽サークルの友人らと比べればマシなもので、色々な土地で酒に溺れながらギグを行うことはあったし、たくさんの人との出会いがあったりもした。東京の一等ドでかいライブハウスで爆発寸前ギグ(持ち時間は40分ぽっちだったけれど……)をしたり、超を接頭辞にするくらいの黒字になれば、「カワバンカ!」と叫んだものだ。
 結局のところ、僕というちっぽけな人間の名前は音楽史どころか、ロッキング・オン・ジャパンにすら載らなかった訳だけれど。そもそも、うらぶれた生活で発酵醸造させた僕の人間性は「NO MUSIC, NO LIFE.」を鼻で笑い、臍で茶を突沸させ、朝から晩まで噴飯していたのだから仕方ない。

 それでもサークルに与えられた狭い部室で過ごすことは何よりも楽しかった。大学生活の全てはそこにあった。僕の理想はスペースシャトルに乗せられ、音速を超えて見えなくなるくらいに離れていったけれど、最大瞬間風速的な楽しみはそこにあった。
 僕らのオアシスは部室棟の三階にあった。一階は、柔道部やラグビー部を始めとする筋骨隆々の為に充てがわれていて、部室を目指すにはそれらの前を通り、奥まった階段を進まねばならなかった。揮発した男汁満載の、饐えて何かが腐敗したような臭気漂わす空気の中を、僕はいつも息を止めて歩いた。あれは笑気ガスで、肺に一度入ってしまえば正気でいられないと教えられていた。二階は陰気が立ち込めていて気味が悪かった。全階層に同じ向きの窓が備えられていた筈なのに、図抜けて陽当たりが悪かった。僕は一度も足を踏み入れたことがない。
 四畳あるかどうかもわからない部室はいつも誰かがいた。僕もそこの住人だった。粗大ゴミ寸前のイカれた発色のブラウン管は、RCA端子の赤を仲間外れにしてスーパーファミコンと繋がっていた。冷蔵庫には缶ビールしかなかった。壁は黄色く、常に煙が燻っていた。本来の居場所であった天井から外されて、床を転がっていた火災報知器に「You are fired!!!」と落書いたりした。なんてことのない日常がそこに詰め込まれていたが、僕が卒業してすぐに取り壊され、更地になったらしい。思い出は形じゃない。いつだって脳みそドライブに保存されている。
「粗製濫造された陳腐なカス映画ですらタイムスリップする術があるっていうのに、両親謹製の僕の人生にはそんなんありゃあしないじゃないのよ。やっぱりあの時代は楽しかったけれど、あれの所為で僕の人生は狂っちまったね。この世がDCコミックスだったら自棄を起こしてスーパーヴィランになってるだろうさ」
 眠らずに朝が来て、ふらつきながら帰っていた頃はもう遥か昔。今じゃあ、老化という下り坂がハイウェイ46くらい続いていく。あと20年もすればベンジャミン・バトンに憧れるんだろう。あともう少し、僕が大人(肉体ではなく精神の成長を経た)になったのなら、思い出を諧謔に変換できるのかもしれない。

映画観ます。