20200123 ポップ・ミュージックとは一体全体何なんだい?

 だ、そうで。お題を投げつけられてしまったのなら、受けねばなるまい。これでもソフトボール部に所属していた。小学校以来やってない。万年補欠だった。

 これでも僕はバンドマン(の端くれ未満)として、音楽活動に対しては誰よりも真摯に向き合ってきた。ライブの前日だけは、楽器の練習を綿密に行ったし、爪だって綺麗に整えた。音楽に関してだけは一過言あっても可笑しくはない。普段の生活で歌を聴くことなんかないけれど。128kbpsも198kbpsも違いわからん耳だけれど。否、どれも一緒だ。ピュアオーディオなんて糞食らえだ。全て劣化してる。生には敵わない。きっと、Diggy-MO'だってインテロバングをメッシュキャップの上に浮かべているに違いない。WHAT’S PURITY?
 ポップ・ミュージック。僕の心を漫ろにさせる耽美なる響き……。
 それで、ポップって一体なんじゃらほい?

 まず前提として、ここでいう「ポップ・ミュージック」は音楽のジャンルではなくて、精神性によって規定されるものだとして推論を推進していく。さらなる追加条件として、これは主観による心情の吐露であって、異論はノーサンキューなのだ。気に入らなかったらマイケル・ジャクソンでも聴いて心を落ち着かせてほしい。僕は誹謗中傷に弱い。晒されたなら直ぐ様にBeat Itするだけだ。邦題を公募で選んだに違いない。
 因む程でもないけれど、レビューやなんやとかいうコラムめいたものではないので、お勧めのミュージック・ビデオについての言及とかはしない。そういうのは各書店で音楽雑誌コーナーをディグったり、タワーレコードを根城にして音もだち(死語)をお探しいただきたい。
 これから先の僕の暴論は全てに於いて、文末に「多分ね」の一言が添えられていると思ってもらえれば幸いだ。

 ポップ・ミュージックは退屈でなければならない。

 現代のJ-POPは概ね死んでいる。死にかけているのではない。死んでいる奴が多いのだ。ミソは"概ね"という部分で、クリエイティビティは産まれ、育まれている。
 アンチ商業主義への傾倒がオタク(依存先での差異はままあるが)にはありがちだけれど、一寸ばかりそれとは違う。勿論、十代の僕はそれに感化されていた。インストゥルメンタル至上主義だった時期もあったし、スウェディッシュ・ポップ及びネオ渋谷系至上主義の時期もあった。結局、色々と観て聴いてNumber Girlにまた落ち着いたけれど。馬鹿モロ出しだった僕の口癖は、「死屍累々のJ-POP程に退屈なものはないね!」だった。あれ、今と変わらない。
 閑話休題。僕はJ-POPが泉下となることは善哉なのでは、と思っている。日本国に於ける、商業音楽を消費する中心層は、確実にテレビジョンからの距離を置くようになっている。「あってもなくてもどちらでもよかった」音楽というものがこの十数年で、「なくてはならない」ものになったのだ。正しくは、それを求める人にとっての「なくてはならない」ものである。
 極端に能動的でいなければ聴けなかった楽曲らが、Youtubeを始めとするネットワーク・サービスの普及を背景にして、中程度の能動性で聴けるようになったのが大きい。これまで受動的に流れていたそれらをBGMのように聞き流していたり、与えられる餌を雛のように受け入れるだけの"流行を作り出すための"音楽番組に依存していた時代は終わりを迎えつつある。
 前述の通り、最新鋭の格好のよろしい最良の楽曲については縷述しない。僕が言わずとも、「NO MUSIC, NO LIFIST」の面々は、浅学者の僕よりも造詣が随分と深い筈なので、好きな音楽を好きなだけ貪ってほしい。
 色々と文句は言っているけれど、僕だってただの聴衆の一人なのだ。例外はない。狂人風を装って、人道を歩んでいるけれどポップ・ミュージックは僕の心を離さない。昔から、山崎まさよしに心を絆されている。彼の歌はいい。全人類が聴けばいい。
 J-POPとポップ・ミュージックは部分集合の関係であってイコールではない。

 邦楽は世界規模で見ればヒットチャートという趨勢から完全に取り残されている。正に島国独自のガラパゴス的進化、というよりは停滞に近い。ダーウィンが興味を持とうとも21世紀を歩む人類の食指は疼かない。国内のヒットチャートはどうだっていい。それこそ停滞だ。J-POPは基本的に形骸化を超えて臭骸化している。K-POPに駆逐されて然るべき状況だ。特に女性グループはいいぞ。可愛いし、歌も踊りも巧みだし、何より可愛いし。
 スガシカオの「ヒットチャートをかけぬけろ」という曲を思い出したけれど、あれはなんだかポップじゃない。

 しかし、ポップ・ミュージックというものは、よくもまあ同じことばっか歌えるもんだ。語感は違えど、どれも言いたいところの根っこはラヴである。それは奈良時代から変わらなくて、音階がなくとも五・七・五があれば十分だった。惚れた腫れたとか、会いたいだの、きっとここから愛なんだとか、お前らはそれなしでは生きられないのか? 嗜癖が過ぎやしないか? いや、そりゃああって困りはしないけれど。よくもまあ、いけしゃあしゃあと歌えるもんだ。大和言葉の奥床しさは何処へ? ごめんね、本当は僕も歌いたい。カラオケボックスでラヴソングをステディなあの娘へ歌いたい。
 哺乳動物(取り分け人類を差して)の目指すべきところは、畢竟するに子孫繁栄であり、やきもきの豪雨に晒されてびしょ濡れの心を乾かすのも、漫ろに揺れ動いたからからの心を潤すのもラヴでなければならない。
 ポップ・ミュージックを志すならばマジョリティに擦り寄る必要がある。ポピュラーを目指して、自身がフェイマスになる姿を夢見るべきだ。わかる人だけわかればいいという、選民思想にも似た感性は捨て置け。マイノリティなどカスも同然だ。尖っているなど禁じ手であって、精巧に打たれた球でなければならない。接地面積を可能な限り広く取って、大衆に寄り添わなければなるまい。心を擽りたいのならば、紫蘇糖のような言葉を吐け。一人のためではなく、一億人のために歌え。大衆は盲目だ。誰一人、「私ら」に歌っているとは思わない。「この歌は”私"のことを歌っている!」と思い込ませる必要がある。
 それが僕のいう精神性なのだ。音楽ジャンルを超越して、国内随一の一等でかいコンサートホールやドームにいようが、地下に潜ってキャパシティ三桁あるかないかのライブハウスにいようが関係ない。「売れたい」という野望を持ち、万人である誰それのために作られた音楽がポップ・ミュージックだ。

 全くなんの参考にもならないけれど、以下は僕の過去の拙作である。これは確実にポップ・ミュージックではない。何故なら拙作だからだ。

 万人のために作られた歌は、濁った双眸を持つ薄汚れの人間紛いには響かない。
 斜に構えた根暗野郎には、ポップ・ミュージックは退屈なのだ。

映画観ます。