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20191220 慢性アマプラ中毒

 映画観賞という行動は僕の安寧の代償になっている。時間の持つ有限性を蔑ろにしがちな僕にとっては心底有難いことで、それに夢中になっているだけで時間は滔々と流れ去ってくれる。旗日を巧みにやり過ごせないのだから、消極的対処法に身を寄せるより他はない。ただ、この行動を趣味と呼ぶにはあまりにも弱い。そこら辺を横行し跋扈している人間と比較すれば、何倍という量をこなしてきた。その筈だが、それでも僕の映画の楽しみ方は暇潰しの域を出ることはない。まず、僕は映画館へ足を運ぶことが圧倒的に少なく、各種動画配信サービスへの依存がある。勿論、映画館での視聴体験が素晴らしいのは違いなく、最新の話題作を観終えてからの感動は一入である。迫力のある音響や、スクリーンの明滅は他では体験し得ない稀有なものだろう。体を包み込む座席で、ポップコーンと炭酸飲料というウルトラベターな組み合わせを広げることも乙なものだ。それでも僕の体には出不精という小さな病が、質の悪い喘息のように完治することなく染み付いているし、畢竟狭い部屋で、自分のペースのままに過ごすことが何より優先すべきものになっている。映画を観賞するのではなく、それらが流れている状況が重要で、エンドロール後にあーだこーだと考察をしたり、半券を後生大事にすることに必要性を感じていない。所詮、好きか嫌いかでいえば好き、の範疇で収まる話だった。
 しかし、男女が撚り糸の如く連れ立って、チックフリックやロマンティックコメディを上映する暗がりへと足を運ぶ様には、得も言われぬ羨望(限りなくやっかみに近しい)がある。慟哭を上げて崩れ落ちそうになる。それでも僕は夢を詰め込めるくらいに空っぽの頭蓋でも、理解しながら観られる娯楽映画の虜だった。連れ立つ者を持たざる男寡なのだから致し方ない。そもそも理解をする必要があるのだろうか? 筋骨隆々がミニガンを小脇に抱えて、悪漢どもを薙ぎ払う様さえあればいい。RPGをぶっ放してくれれば尚のこと痛快この上ない。悔しくなんかない。HEAD-CHA-LAだ。僕は今『陰陽師』を懐かしみながら観返している。若き野村萬斎氏の相貌は本当に美しい。嘆息が漏れた。
 僕は外国映画も日本映画も分け隔てなく楽しめる性分だが、いつの間にやらある種の日本映画を素直に楽しめなくなった。勿論、新旧問わず海馬から大脳皮質へと深く刻み込まれる名作はあるし、贔屓の俳優や監督は多くいる。しかし、恋愛の要素が絡むと途端に娯楽と思えなくなってしまった。
 僕が紛れもない無知蒙昧の権化であった義務教育時代から、恥も外聞も捨てて進学校を自称する陸のアルカトラズ高等学校へ入学する辺りまでは楽しめていた筈なのに、だ。要は、僕には見えてしまうのだ。何が見えるのかと問われたところで、それに適した簡潔な言葉を見繕うだけの発想力や語彙力は持ち合わせていないのだけれど。雰囲気としては『不気味の谷』がそれに近い。当時、クソを接頭辞に乗っけていたガキの頃の僕は、映画というものを僕の夢や希望の対象としていた。スクリーンや、磁気テープ、光ディスク越しに眺めていた世界に僕も入っていけるような、登場人物になれるような気がしていたのだ。それがどうだろう? 今の僕はナンダカンダ叫んだって品性のない大人へとなり腐った訳で。生緩いが酸いも甘いもを顎が外れる程に噛み分けたし、辛酸は味蕾が擦り潰れるまでべろべろと舐め回した。そうしている内に楽しみ方がズレていったのだ。僕が求めているのは「非日常感」である。
 その僕の渇望する感覚が、どんなジャンルであれ外国映画には存在している。僕の住む土壌を隅々まで探したところで、作中の風景は存在しない。俳優の見慣れない彫りの深さも殊更に際立ち、異なる言語や文化がある。しかし、日常と非日常の間が、日本映画には多く散見される。所詮、俳優も僕も同じような顔の平たい族であるし、縄文人やら弥生人の混在の終末である。少なからず親近感が生まれる。役者ではない、私生活が透ける。ただ、僕の想像し得る限界はパンピーのそれであるし、華々しい世界との乖離はあるだろう。現代恋愛劇ともなると、「そんな展開ありえんやろ!」だの、「美男美女の恋愛見て何が面白いんだ!」だの、「とりあえず接吻しとけばいいと思っとる!」だの、「ご都合主義の脚本にはうんざりだ!」だの、「セットも映像技術もちゃちぃ!」だの、「またこの俳優や女優で釣りをしとる!」だの、「単純にあり得ん」だの、「単純につまらん」だのと重箱のど真ん中から蓋まで突きながら、不平不満をたらたらにイチャモンをつける。フィクションをフィクションとして感受する余裕がないのだ。お猪口程の器量しか持ち合わせがない。こんな木偶の坊でも成体まで無駄に上り詰め、薄給を存分に無駄遣いしながら火の車の生活を、二輪車を立ち漕ぎながら維持することができている。その間に得た、自身の愚図で矮小で野鄙な経験が重なるとそこに微妙な隔たりを見る。それはそれは大層な積み重ねがある訳ではないが、十代時分の障子紙よりも薄っぺらだった人生経験と比較すれば月とスッポン、エベレストとマリアナ海溝の差があるのだ。そうして『不気味の谷』に似た気持ち悪さに陥る。僕は獅子の子ではない。谷から這い上がる気概は疾うの昔に、母の子宮に置いてきた。
 いろいろと愚痴を溢してはみたが、僕が何を宣ったところでこの喧伝に意義が生まれることはないし、擦り切れる程に論ざれた話題を今更持ち出すような野暮が、僕の面の皮を恥で厚化粧するばかりで仕様がない。加えて、映画業界の衰退を助長するように僕は動画配信サービスの虜である。それに僕が辟易する類いの映画は、僕に観られることを想定も望みもしないだろう。枠外からの進言など聞くに値しない。僕は外野からやいのやいのと野次を飛ばすことに忙しい。羞恥のあまり汗顔に至る。

映画観ます。