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20200116 肉を焼け!

 繁忙期が終わりを告げて、台風の目に入った職場には凪が訪れた。だらだらとした日々が戻ってくる。
 休日返上の業務を済ませた友人が呟く。
「フレキシタリアンでありたいよね」
 彼の言葉に、僕は赤べこになって応えた。
「違いないね」
 彼の双眸は近い未来を眺めながら続けた。
「肉を焼きたいよね」
 僕は胸骨に顎を減り込ませる程に深く頷き応えた。
「違いないね」
 僕らは職場から最寄りの焼肉屋へと、ホップ・ステップ・ウォークで向かった。二分も経たずに到着した。最寄り過ぎて散財が怖い。
 友人と僕は何かと託けては外食をしてしまう。以下は以前の食レポ風の何かである。

 色々の注文を済ませて、僕は一服をした。伽藍堂の胃袋に、「さあ、これから君を満たしてあげるよ」と多少の淫猥さを含めて煙を馴染ませる。
 夕餉が次々に運ばれてくる。どれもがきらきらとしている。僕の唾液腺が活動を始める。昼間に食らった卵かけご飯以来の食物は、僕の心を漫ろにさせた。
 友人が肉を網の上に並べていく。僕は「焼き肉」という高尚な儀式に於いて、全てを彼に委ねている。僕には肉を焼く慧眼がない。才能以前の問題で、僕は色覚異常者である。信号機がLEDに仕様変更してからというもの、青は外灯の白と区別ができず、黄と赤はどちらも僕の目には橙に映る。有り難さが有り余る。
 網の上で地獄の如き責め苦を甘受する肉は、じわりじわりとメイラード反応を起こしていく。なす術なく焼かれているその様は酷く滑稽だ。全身をじっとりと肉汁で濡れそぼらせたそいつは、真夏にコンクリの上を歩いた僕のようだった。一度そいつが滴れば、じゅうと快音鳴り響き、僕はパブロフの犬となって口腔一杯に唾液を拵えた。
 僕はコークハイで生唾を流し込む。待てを強制されて積み重なったルサンチマンという溜飲を下げた。
 タンパク質の加熱香気が僕の鼻腔をくすぐる。まだか、まだかと腹の虫が怒り出す。時間指定の宅配業者を待っているあの時間よりも随分と長い。
 下準備は疾うの昔に済ませている。檸檬は絞った。割り箸のささくれも綺麗に削いだ。残るは、肉自身が仕上がるだけだった。
 内臓に溜まった声にならない呻吟を漏らそうと、あぐあぐと口を開いた。パン屑を取り合う鯉の群れに紛れてしまえたことだろう。
 ああ、肉。どうして貴方は網の上で焼かれているの。そう、僕の胃袋に迎え入れるためさ。胸中渦巻く悲恋のように僕と肉との心的距離は縮まらない。注文の少ない料理店は、「お客さまがた、こちらの網の上で焼かれてください」の一点のみに集中している。

 友人が一番よい塩梅の肉を網の端に置いた。
「さあ、お上がりよ」
 彼の言葉が僕の鼓膜を揺らす。成層圏を抜ける程に浮遊していった僕のエクトプラズムが一気に引き戻された。
 僕は、「ありがとう」の一言すらも忘れて、肉を掴む。檸檬の湖を潜らせ、塩をほんの少しだけつけたそいつは、纏う肉汁と店内の照明をいっぱいに浴びて輝きを増していた。

 一気呵成に僕は肉を放り込む。咀嚼がこれ程の怡悦とは。僕はただひたにその肉を噛み続ける。僕の中枢神経が俄かに騒ぎ立つ。セロトニンは暴れ出した。シナプスからニューロンを通りシナプスへ、僕の中で至福が大運動会を行なっている。胃に落とすことを惜しみながら、僕は狂喜乱舞の味蕾を窘めた。これが消えてしまったら、僕はどうなる? 胃袋へと辿り着けば明日への活力になるだろう。しかし、今、そう今この瞬間の娯楽は? 愛しき肉は何処へ? そこに愛はあるのかい? 僕の中のチイ兄ちゃんが問いかける。ほんの小さな出来事が僕を懊悩煩悶させていた。

 そして、僕は見た。友人が次の肉を丁寧に網に置く、その瞬間を。

 僕は口腔に住みかけたそいつを飲み込む。コークハイをまた一口と流し込んだ。
 上唇から食道までが、綺麗さっぱり脂を失うと、僕は直ぐ様にパブロフの犬へと巻き戻った。

映画観ます。