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禅語「発菩提心」 生きることが仕事です

これまでいろいろなお寺の坐禅会や接心(一週間の集中坐禅会)に参加したり、今は藤田一照老師から数年にわたって禅をご指導いただいていますが、毎回「???」の連続です。

坐禅法を指導されてもなかなか出来ない。
また、与えられた課題も結構さぼっている。
そんなダメ生徒ですが、何とか見放されず続けています。

しかし、不思議ですね。

一年、二年、三年と経つ中で、何かが変化しているのです。

それも、何が変化したと具体的に言える何かではありません。
でも何かは確実に変化している。

ちなみに最近は、生きるということの比重が変わってきたように思います。

生きることの比重とは、
「何をするか(Doing)」と「どうあるか(Being)」の比重です。

何かをするときに、「どうしたらよいか」ということを考えます。

どういう問題があるのか。
正しいのか、間違っているのか。
どうするのが妥当なのか。

数年前に比べると、仕事の量はめっきり減りました。
自然の流れに委ねていたら減っていったという感じです。

以前でしたら、
「どうやって売り上げを増やすのか」
「これからの戦略は」
「何が足りないのか」
「どうすればお役に立てるのか」
「私のビジョンは」
「自分の強みは」
と問いかけながら必死で努力していました。

どうしたらよいのかということがほとんどを占めていました。

もう一つ、「どうあるのか」という生き方があります。

先日、私のスケジュール帳をみた妻から「明日から春休みですか?」と聞かれました。

それに対して、以前だったら罪悪感を感じたかもしれません。
あるいは、そんなことはないと反発したかもしれません。


このときは、「生きることが仕事です。」と笑いながら答えていました。


妻も笑っていましたが、半分、呆れていたかもしれません。

今仕事は減りましたが、おかげさまで食べるには困っていません。

本当に少人数の人としかお付き合いはしていませんが、人とのご縁は豊かになりました。

仕事が多いときよりも、今の方が焦りはありません。

ただ待っていると、たまにですが誰かが私を見つけてくれるのです。

「赤野さん、手伝ってよ。」と声をかけてくださるのが、本当に嬉しいです。

ちなみに先日は、禅を学ぶ仲間からオリンピック出場を目指す陸上選手のメンタルトレーニングを依頼されました。


禅において、人生はよく川に喩えられます。

流れを感じられる心でいること。
これだけは日々大切にしています。

日々心を整えて生きること。嘘なく生きること。
名利を求めず、ただ生きることを仕事と思って、取り組むこと。


私は、noteの記事のほかに、ブログを8年ほど、ただ書き続けています。
内容はそのときどきで異なりますが、なんと昨日の来訪者は1人。
これって逆にすごくないですか。
8年以上続けて1人って。

ただ、不思議ですね。
今、週間ゴルフダイジェストで
メンタルトレーニングのコラムを連載させていただいていますが、
その発端となったのはブログの「禅とゴルフ」に関する記事でした。

編集者がたまたま私の記事を見つけてくれたのです。
考え方がユニークだということで記事の依頼が来たのです。
ブログを書きはじめて5年ほどたった頃だったと思います。

誰に読んでもらえなくても、ただ書きたいことを書き続けています。
私は、書くことで自分の思いを整理しているのだと思います。
心を表現する修行をしているともいえます。


出来ることをただ日々コツコツと続ける。
たとえ人には見てもらえなくても。


これしか出来ないという感じでしょうか。

これがわたしなりの「あること」を大事にした生き方。

以前は、人生を挑戦だと思っていました。
今は、人生は修行かなと思っています。


最近、一番心に残ったこと。

それは草抜きです。

まさにこの瞬間は「無心」になって草をむしっていました。

草むしりが楽しい。


最近どんなクライアントに出会っても、
草むしりの感覚でセッションしていると思います。

セッション自体に意味はない。

そこに実体はありません。

ただ、まっさらの心でいる。

浮かび上がってくる何かを拾うだけ。

それが私に出来ることのようです。


誤解がないように申し上げると、
この私のあり方が正解というわけではまったくありません。

私の妻もそうですが、日々きちんと働いている方を尊敬します。
むしろ、私のような人間ばかりだと社会は成り立たない。

だから、このような贅沢な生き方が出来るのは、
このnoteを読んでくださっている皆さんが
一生懸命働いてくださっているおかげなのです。


それぞれが生きるという仕事をしている。


そこに尊いも卑しいもない。
命を生きるということが一番大変なのだと思います。


先日、禅の師匠が
「いのちがあなたを通して生きている」と話されていました。

いのちが私の手を取ってくれている。
いのちが私を導いてくれる。

最近、ビジネスで注目されている「ティール組織」という本があります。
昨年、著者のフレデリック・ラルーさんが来日されたのですが、
講演の中で印象的だった言葉があります。


「“パーパス”(目的)があなたを見つけてくれる。」


私なりに解釈すると、目的は自分で考えて答えが出るものではなく、向こうからやってきてくれるという感じでしょうか。

つい、私たちは「私が〇〇をする」となりがちです。

私が目的を見つける。
私が頑張る。
私が成功を掴む。

私自身、ずっと何かを探して生きてきましたが、見つかりませんでした。
実は、何かを見つけようとすることが苦しみだったのです。

そうではなく、誰かが、もしくは何かが私たちを見つけてくれている。

自分にやってくるものに耳を傾けてみよう。感じてみよう。

掴みにいく努力もありますが、私には「受け取る努力」の方が合っているようです。

師匠やラルーさんの言葉はスッと心に落ちました。


仏教には「発菩提心」という言葉があります。
辞書を引くと、「煩悩を捨てて、悟りを得ようと決心すること」とあります。

しかし、禅では「悟りを得ようとする努力する」ことを戒められます。
悟りを求めると悟りはこない。

師匠の老師は、「菩提心が私に呼びかけてくれたのでしょう。道が私を呼ぶのだと思います。」とおっしゃっていました。

私がこのような生き方に変わったのも、私が変えたという感じはありません。

アメリカに行きはじめたのも呼ばれた声にただ応えただけ。

私の中に、もともとあるものが反応したのかもしれません。
まさに、因縁ですね。

この文章も自分が書いているという感じではありません。
パソコンを開いてただ待っていると、何かが生まれてくるような。
言葉が私を浮かび上がらせてくれるというと格好良すぎるかもしれませんが、正直なところ、気がつくと書き上がっています。

いいことを書こうとか、どう思われるだろうかとかと考え始めると、
声は聴こえてきません。

それにしても、「生きることが仕事です」とはなかなか上手いことを言ったかなと密かに喜んでいる今日この頃です。

生きることが仕事なので、あまりそれ以上に頑張ろうともがく必要はないのかもしれません。


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