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【禅を仕事に活かす】 聴くことは相手のためならず

自分のことが一番分からない。

自分で自分のことは、なかなか見えない。

コーチをやっていても、なかなか自分のことは分かりません。
しかし、自分が見えてくるときがあります。

それは人の話を聴いているとき。

コーチという仕事は、クライアントを映し出す鏡のようなものだと思っています。

だから、できるだけ余計なものを加えず、ありのままを映し出せるようにすることを大事にしています。

話を聴く。
先入観や固定概念など、何も加えずに、何もジャッジせず、ただ聴く。
これは結構、難しいです。

つい、アドバイスが浮かんできたり、ジャッジが邪魔をしたり。
そのたびに、心をゼロに戻します。

話を聴くというのは、私にとっての修行のように思います。

受け入れること。
許すこと。
今この瞬間にいること。
結果や評価を手放すこと。
全身で聴くこと。

何より大事なのは、自分自身であること。

だから、さっきの真逆もすべてあっていい。

受け入れられない。
許せない。
過去や未来に囚われる。
結果や評価に執着する。
頭で考えてしまう。

じゃー。なんでもいいじゃん。

それが鏡かなと。

ただ不思議ですね。

鏡となり、相手を映し出すことで、自分の姿が浮かび上がってくるのです。

自分はこのようなことで怒るのだ。
このようなことで不安になるのだ。
このようなとき悲しい気持ちになるのだ。
このようなとき心から共感できるのだ。

話を聴きながら、私自身のさまざま感情が見えてくるのです。

その感情が心という川の流れになっていきます。
サラサラ、時にはザーッと流れていきます。

話を聴くことと坐禅は、とてもよく似ていると感じます。

静かに坐ることで、自分が見えてきます。

見えてくるのは、自分が見るのとは違う感じです。

自らの意志では見えないものがあります。

意志を手放せたときに見えてくるものがあります。

相手の話を聞いてやろうと意気込んでいると、どこかで余分な力みが発生します。

意志を持っているのは、能動的な状態。
相手に矢印が向いています。
これだと、どうしても自分というフィルターが相手を見るということになり、ありのままの姿は見えてきません。

力を抜いて、ただ聴けているのは、受け身の状態。
相手から自分に矢印が向いている状態です。

いいとか悪いではなく、ただそういうエネルギーの流れ。
流れに逆らうことなく、ただ身を任せて聴きます。

すると、自分が見えてくるときがあります。
相手に自分の姿を照らしてもらっているのかもしれません。

これは見ようとしても見ることができない本当の姿。

「見る」のは、自分の外のこと。
外のこととは、私が抱える問題。

何を成すべきか。
正しいのか間違っているのか。
自分が悪いのか、相手が悪いのか。
原因や結果を分析する。

これはすべて自分が作り出した概念。

「見えてくる」というのは、もっと個人的な体験。
あなた自身の姿とも言えます。


以下は、私の個人的体験の一例です。

ずっと光を求めて生きてきました。

自分を取り巻く世界は暗闇だと感じていたのです。

どれだけ探しても光は見つからない。
そんな状況に絶望し、諦めてもいました。

そんな苦しみの中でも、クライアントの話を聴いているときや、坐禅をしているときに、私という存在が消えていきます。

「私」は消えていきます。
その瞬間、自分が自分であるような感じがしていました。

あるときクライアントの話を聴いていると、自分が透明になっていくのを感じました。

そして、自分という光が見えたのです。

それは希望という光でした。

自分の姿がみえた瞬間でした。

そういえば、以前親しい人から「赤野さんは希望に溢れている」と言われていました。

でも、どれだけ言っていただいても、自分では認めることはできなかったのです。

というよりも、自分の姿が見えていなかったのです。

物理的には、鏡でも使わない限り、自分の姿は見えません。


それなのに、不思議なことですが、自分が透明になったときは、自分が見えたのです。


自分は希望。

希望が私を通して生きる。

以前なら、嘘っぽいと思ったことでしょう。

不思議ですね。

今は、希望として生きる方が、自分を生きていると感じます。


自分が見える世界がすべてだと思うところに苦しみが生まれます。

私の場合は、周りの暗闇を自分だと思っていました。

だから懸命に光を探し、希望を探していました。

どこかに光を求めても、光は見えるわけがないのです。
だって、自分が光なのだから。希望なのだから。

自分自身の希望が見えてきたとき、私が苦しんできた一つの謎が解けました。


私はクライアントとのセッションで、
クライアントの光を鏡で映す役割をしてきたのです。

クライアントが外を見るのではなく、本当の自分の姿に気づいて欲しい。

それはまさに自分自身の願い。


最近は、クライアントとのセッションを「2人坐禅」と呼んでいます。

最初は私が聴きはじめ、クライアントが話し始めます。
でも、どこかでどちらが聴き手、話し手という役割がなくなっていきます。
どちらも話して、どちらも聴いている。

お互いにお互いの姿を映し出す。
それが「聴く」ということの本質ではないかと。

少しだけ、ありのままが見える目に磨けてきたのかもしれません。

ただ、ここが危険なところ。

悟ったとか分かったとか思うと、すぐに見えなくなります(笑)

まだまだこれからが修行。一生が修行。

自分自身の心を透明にして、
皆さんの姿を希望という灯りで照らしていきたいと思います。

今回は少し嬉しい報告でした。

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