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人生が反転するとき3 「手応え」から「何もない」という生きるベースへ

2回前の記事から、「何もない」というあり方で生きることについて、お伝えしています。「何もない」というのは、仕事やスポーツでも大切です。

過去の記事はこちら
人生が反転するとき1 「何もない」ということ
人生が反転するとき2  「空」と「色」を生きる


今回は、ゴルフを例にとって考えてみたいと思います。ビジネスパーソンの方は、仕事に置き換えて読んでみてください。



ゴルファーは、「手応え」を求めます。

手応えというのは、何かがある世界です。いいスウィングやいいプレーができれば手応えを感じます。一方で、自分の理想と違うスウィングだったり、ミスが続けば、手応えがありません。

手応えは自我の線といえます。自我が生み出す幸せや苦しみがあり、常に感情がアップダウンします。これは「何か手応え」を求めて「何かをしよう」としている線といえます。

「何かをしよう」とするプレーは、自分にこだわっているプレーであり、「このプレーはいい」「このプレーは悪い」という言葉によって、特定の部分が強調される特徴を持っています。

多くのスポーツ選手は、楽しいときにいいプレーが出来ると思いがちです。確かに、苦しいときよりもパフォーマンスは高い場合が多いと思います。ただ、楽しいも苦しいも、「何かがある」という自我の線を生きているという点で同じなのです。

そんな自分がうるさくありませんか?
煩わしくないですか?

楽しいも苦しいも「何かがある」ことを前提にしたプレーという点で同じなので、楽しいことにこだわるほど、苦しさも増します。

楽しい、苦しいのどちらにしても、「いい」プレーをもっと続けたいと考え出すと、流れが切れてしまうからです。「いい」プレーにこだわることで、部分に戻ってしまうのです。

だから、「楽しいから良いわけでない。苦しいから悪いわけでもない」のです。



一方で、何もないプレーとは、「貪っていない。怒っていない。執着していない」ことがベースのプレーです。

このことをトレーニングでお伝えするのは、かなり勇気と選手との信頼関係が必要です。なぜなら、一見すると、まったくゴルフと関係がないからです。また、「何もない」ことをベースにプレーしても、いい「手応え」に直接至りません。

ひとつ言えるのは、「何もない」というベースは、すべての人に共通にしているものだということです。「何もない」ベースこそ、いつも常にあるものです。だからこそ、気づけないのです。



スポーツのメンタルトレーニングでは、プレー中だけではなく、日常生活でも「貪っていない。怒っていない。執着していない」と気がついたら唱えてもらいます。

「何もない」というベースは、禅で言う「無」です。「無」は「何もない」と同時に無限です。まっさらで無限に広がっているので、形が見えません。

選手にとって、ショットやパッティングをしたときの手応えや、プレーの形が見えないのは、最初かなり不安なようです。

人は、自分が作り出した有限の世界に不自由や苦しさを感じながらも、有限のプレーから出ることを恐れます。それは従来の常識や経験では測れない世界だからです。

でも、無限の「何もない」というベースが、すべてのものとつながっている全体性の世界なのです。

「何もない」というベースでつながっているのは、人だけではありません。周りの空気、重力、水、宇宙、すべてのものと繋がっている状態です。安心感があなたを包んでくれます。

「何もない」ということの全体性を言葉にするのは難しいです。言葉はそもそも部分的になるという特性を持っているので、普通に言葉にすると、周りから切れてしまうからです。



いかに全体性を失わない表現をするか。



これは、選手とのメンタルトレーニングでの取り組んでいる大きなテーマの一つです。

「貪っていない」「怒っていない」「執着していない」というのは、「貪らない」「怒らない」「執着しない」とは違います。

「貪らない」「怒らない」「執着しない」は目的であり、意志の言葉です。これは他から切れて部分的になります。

「貪っていない」「怒っていない」「執着していない」というのは、今起こっている状態です。「何もない」世界は、常に現在進行形です。



また、禅語においては「不識」「無我」「無心」「非思量」など、「〜していない」「〜はない」という「不」や「無」や「非」の表現をよく用います。

「不貪」とあえて否定形で表現することで、貪るという自我の世界の外に出ることができます。前々回のメルマガで「貪っていない」というのは、布施(施し)が現れていると申し上げました。布施の姿は、自分では見ることはできません。



「貪っていない」「怒っていない」「執着していない」というのは、一見するとゴルフをはじめスポーツとは直接関係ないように思うかもしれません。しかし、だからこそ大事なのです。スポーツは競技である以前に、生きていることなのです。

生きているベースが揺さぶられて不安定になっている状態で、どんなにいい技術を持ってプレーしようとしても、本来の力を発揮することはできません。

アスリート達は、よく「調子がよい」、「調子が悪い」という言葉を使います。そして、調子は技術的な問題だと考えます。「技術は技術でなんとかなる」という誤解があるのです。

技術は生きているベースとどうつながっているかによって、まったく変わってきます。どんなにいいスウィングをしても、生きているベースから切れていれば、ボールは曲がります。練習するほど、試合で身体が動かなくなります。いいスウィングが通用しなくなるというのは、あなたのベースを見つめ直す時期といえます。

これは仕事も同じでしょう。これまでのやり方での限界を感じるときが誰しもやってきます。

スポーツでも、何かをすることで見えてくるプレーと、何もしないことで顕れてくるプレーがあります。

これのどちらが良い、悪いということはありません。その時々で良い悪いが変わるでしょう。今あなたにはどちらが必要か?が言えるだけです。

あるプロゴルファーは、「『貪っていない』『怒っていない』『執着していない』というベースを大事にすることで、一打へのこだわりが薄くなった」と言っていました。その結果、ミスしても以前のように次に引きずらず、すぐに切り替えができるようになったそうです。

3つの「ない」でプレーしているとき、自然に音が入ってきます。あるいは、雲が目に入ってきます。音を聞こう、景色を見ようとしなくても、自然に周りとのつながりが生まれてきます。

そのとき、あなたの身体はおそらく余計な力が抜けて、安心感に包まれていることでしょう。この安心感が「何もない」ベースの感覚と言えます。




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