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人生が反転するとき 「貪・瞋・痴」から「不貪・不瞋・不痴」へ

ある日、スケジュール帳を見ながら、今日は面白くなさそうな一日だと思いました。ワクワクすることがなかったのです。

私がワクワクしないのは、以下のような感じの日です。
・いつもと同じ
・やりたくないことがある
・大変そう
・特別なイベントがない
・退屈だ
・価値がないことばかり
・評価されない
・やりがいがない

一言で申し上げると「何も楽しいことがない」一日です。

なぜ、まだ一日がはじまってもいないのに、面白くないと感じたのでしょうか。



頭は「何かがある」ことを求めます。

何かとは、幸せなこと。手応えがあること。特別なこと。楽しいこと。価値があること。

そして「何かがある」だけでは物足りず、さらに「快」や「楽」を求めます。苦しいことや退屈なことを避けようとするのです。



「サザエさん症候群」という言葉を聞かれたことがあるかもしれません。日曜日の夜、サザエさんを見ていて、また月曜日がはじまるかと思うと、現実に直面して憂鬱な気持ちになることです。

逆に金曜日に、明日から休みだと思うと気持ちがあがったりします。

楽しくないときには、「週末に仲の良い友達と会うから、あと数日頑張ろう」という気持ちのもっていきかたもあると思います。

そして、こうしたイベントが終わってしまうと、せつない気持ちになったりします。そして、ふたたび楽しい「何か」を探すのです。



これは、何かがあることを前提に生きている状態です。

何かがある生き方は、一見すると当たり前かもしれません。

一方で、禅は「何もない」ことを前提にしたあり方といえます。坐禅は「何もしない」ことを味わう「行」です。

なので、禅の修行の目的を「悟り」と設定すると、それはすでに「行」ではなくなってしまいます。

目的を設定しない。何かをしようとしない。

何もしないことを言葉で説明するのは、結構難しいです。



ビジネスのコーチングをはじめとする自己啓発のスキルと禅は、ときに似ているように見えることもありますが、根本的に違う点はここにあります。禅は、なにかがあることを求めるあり方とは逆とも言えるでしょう。



一つ言えるのは、人は「何かがある」ことに気づきやすいということです。

たとえば「怒り」があります。

「今日は一日中、腹が立つことばかりだった。嫌な一日だった」ということはないでしょうか。とても心地よくない日だったことでしょう。

ただ、事実はどうなのでしょうか。本当に一日中腹が立っていたのでしょうか。

恐らく実際は、腹が立ったことが複数回あって、嫌な時間を長く過ごしていたのでしょう。

では、腹が立っていた時間は、どれくらいだったでしょうか?

これを計ることはできません。

なぜなら、腹が立っていないとき、腹が立つことを忘れているからです。



私も、あるとき、とても腹が立ったことがありました。そのとき、時間を計測してみました。

正確には測れませんでしたが、腹が立っているのが継続しているのは、長くても数分程度でした。気がつけば、別のことに意識が向いているのです。

そして、しばらく時間がたってから再び、腹が立ったことを思い出しました。

実際は、腹が立つ→忘れている→ふたたび腹が立つという繰り返しなのです。

面白いことに、腹が立つことを忘れている時間には、静かにコーヒーを飲んだりしていました。それなのに、これらの時間は「なにもない」として片付けられているのです。

「今日は一日腹が立っていた」と思う日は、確かに腹が立ったことを忘れず、何度も思い出したのだと思います。しかし、ずっと腹が立っていたわけではないのです。しかも腹が立っていた時間は、それ以外の忘れられた時間に比べれば、ほんの短い時間なのです。



もう一度繰り返しますが、人は何かがあることに気づきやすい。ということは、何もないことには気づいていないのです。

では、「何もない」とは、どういうことなのでしょうか?

この問いに対して、禅の師匠である藤田一照老師が、あるとき興味深いことを話されていました。

仏教では、人間には「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」という3つの毒があるとされています。三毒とは根本的な煩悩であり、苦しみの元になっているものです。

三毒にはさまざまな解釈がありますが、「貧」とは自分の好むものをむさぼり求める貪欲、「瞋」とは自分の嫌いなものを憎み嫌悪する怒り、痴とは何かにとらわれ、執着し、的確な判断が下せずに迷う愚かさです。



以前、私は、禅の修行をしていても、煩悩をなんとかして滅しようとしていました。

むさぼらないようにしよう。そのために、人に尽くそう。
怒らないようにしよう。そのために、赦そう。
とらわれ、執着しないようにしよう。そのために、感謝しよう。

これは素晴らしい態度だと思います。ただ結構、難しいです。すぐに欲が出てくるし、怒るし、執着します。出来ないことだらけになってしまいます。そして、少しでも修行の成果が感じられると、優越感が出てきて自信過剰になったり。修行するほど、修行から遠ざかっていくようなジレンマを感じていました。

これは、毒や煩悩を「何かがある」とピックアップして対応している状態といえます。

面白いことに、藤田老師は、煩悩を滅しようとはおっしゃいません。人にはもともと「不貪・不瞋・不痴」のときがあるというのです。

不貪とは、貪っていないことです。貪っていないとき、布施(施し)が現れている。
不瞋とは、怒っていないこと。怒っていないとき、慈しみが現れている。
不痴とは、愚かでないこと。とらわれ、執着がないとき、智慧が現れている。


不貪は布施。不瞋は慈しみ。不痴とは智慧。


人はそんなに悪い面ばかりではない。人が持っている本来の善性がある。もともと持っている善性にフォーカスし、磨いていけばいいではないかというのです。

これを聞くまで、貪っていないとき、怒っていないとき、愚かでないときを意識して感じたことはありませんでした。

すると、貪っていない、怒っていない、愚かでない時間が多くあるのです。そのとき、心身はとても安心しています。

それまで煩悩が起こっていることばかりに目がいっていましたが、視点を逆に変えることで、自分にもこうした安らかなときがあるのだと気づくことができました。



人は「ないことに」気づきにくいものです。

何もないときに気づいて生きる、ないことへの意識化が「何もない」アプローチの入り口はないでしょうか。



ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

このごろは、日々変わっていく空気がとても新鮮ですね。今年の夏は心身ともに疲れやすくエネルギーが上がらない日々でした。何か書きたくても、言葉も湧いてこない日々。

何かをしたいのに出来ないのは、結構、苦しいですね。

そんな中でも、坐禅だけは日々できてきました。

先程もお伝えしましたが、坐禅とは、「何もしないをする」こと。だから、自然に無理なく坐れていたのでしょう。

「何かをする」だけが、することではありません。
「何もしないことをする」というあり方も、あるのです。

夏の間は何もしないことを心身が求めていたのだと、あらためて気づきました。

でも、それってなかなか受け入れられません。つい何かしようと、もがいてしまいます。

頑張れないときに頑張ってしまったり、待つ場面で先走ってしまったり・・・

これって自然の流れに逆らっている状態です。

いかに自然な流れにチューニングするかを大切にしたいものだと思います。

今、貪っていないね。
今、怒っていないね。
今、執着していないね。

これに気づくだけで、安心できます。安心できると、自然な流れに乗れているような気がします。

何もしないことが見えてきたことで、日々の坐禅も変化していることを感じています。おかげさまで、ふたたび新鮮な言葉が湧いてくるようになってきました。



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