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禅を仕事に活かす 自分が裸になるところから本当の対話ははじまる

前回の記事で、皆さんに頬をぶたれて(実際は愛ある言葉)目が覚めたという話をお伝えしました。

あの話には続きがあります。

アメリカでは、ロサンゼルスにある禅宗寺の小島秀明ご住職から禅をご指導いただいています。

懇親会の席で、ある参加者が「このグループはどのように見えていましたか?」とご住職に質問したのです。

それに対して、「皆さん、非常に真面目ですね」と答えられたように覚えています。

彼はもっと率直な会話をすることを望んでいたようです。
だから、もの足りなかったのだと思います。


小島ご住職がいないときに、「先生には壁がある。キリスト教の牧師さんの方が正直だ。」と言ったのです。

私は、彼の言葉を聞いたとき、何かを言わなければと思いました。

そこで「壁はご住職ではなく、自分に壁があったのではないか。
ご住職はそれをただ返しただけではないでしょうか。
壁はどちらか一方でなく、お互いで生まれるものだと私は思う。

以前、私自身も師匠の老師との対話で同じような経験をしたことがある。
私がどこかいいことを言おうとすると、まったく望むような反応はない。
それを老師は自分を評価してくれていない。
自分のことを嫌いではないかと落ち込んでいた。

しかし、それは違っていた。
自分が素直になれたとき、素直な反応が返ってきたから。

修行された禅のお坊さんは、鏡のように私の心を照らしているように感じることがある。」と伝えました。


しばらく沈黙が流れました。
何か上手いことをいったように思いました。
しかし、それは本当に言いたいことでは無かったのです。


本当に言いたかったけど、言葉に出していなかったこと。
それは、「彼が今回の学びに失望して、私の元を去っていくのではないかと寂しくなったこと。もっと一緒に学びたい。」という気持ち。


かなり恥ずかしかったですが、それを言葉に出してみました。
そこで彼がどう思ったかは分かりません。
ただ、そのあと、彼から思わぬ言葉が出てきました。

「本当はもっと聴きたいことがあったのです。それは・・・。」


そこで口ごもりました。
ぜひ聴きたいと促しました。


「それは、お寺の資産価値はいくらか?と」


彼の言葉を聞いて、みんなで大爆笑しました。
私にとっては、まったく問題のない質問でした。
でも、彼にとっては絶対にしてはならない、タブーとも言える問いだったのでしょう。

しかし、その問いを言葉にできた彼の表情は、スッキリとしていました。


ちなみに、私が今回ご住職との勉強会の中で、素直に出てきた言葉は・・・「一回目の坐禅でずっと寝てました。最高に気持ちよかったです。」。
笑いながら言えました。

そのとき、先生も大笑いしていました。


素直になるということは、本当の気持ちを言葉にすること。

以前でしたら、「坐禅で寝ていた。」「気持ちよかった」なんて、とても言えなかったでしょう。
坐禅では、寝てはダメとされています。
だから、修行が足りないことが格好悪くて、隠していました。

だからもっと、いい感想を言っていました。
いい感想とは・・・
「坐っていて、〇〇に気づきました。」といった気づきの感想。


これも嘘ではありません。
ただ、「いい自分でありたい」という自分がそこに現れているだけ。


まずは、言葉を発している自分そのものに気づくこと。
すると実は、言葉にしている事柄と、いい自分でありたいという自分の間には溝がある。
この溝が私には気持ちよくないのです。

ただ、私は正直でありたいのだと思います。

正直であることを積み重ねた結果が、「気持ちよく寝ていた。」という正直な言葉でした。
このとき、言葉と自分のあり方は一致していました。
この一致感が私には大事です。


ただ、本当の気持ちに気づくのがなかなか難しいです。
さらに、気持ちに合う言葉もなかなか見つかりません。

いかに自分の中の声を聴くか。
しかも、本当の声は繊細で小さい。
大きな声にすぐにかき消されてしまいます。

そして、本当の声を相手に素直に伝えられるか。


人は本当の声を聴きたいという思いが、どこかにあります。
本当の声とは、本当のつながり。
しかし、待っていても本当の声はやってきません。
「本当のことを言ってほしい」とお願いしても、相手から心の扉は開いてもくれません。


本当の声を聴くために、まずは自分が裸になれるかが問われます。
裸にならないと、素直な言葉をそのまま伝えることは出来ないからです。

相手が素の自分を出すことを求めても、誰も裸にはなってくれません。

本当の対話をしたいなら、自分が裸になって本当の声を出すこと。

これは、対話の修行かなと思っています。


対話の修行は、いいプレゼンをするのとは違います。
どう思われるかを計算するのでもありません。

上手い、いい、すごい、格好良いという評価をいかに手放すか。
相手にどう思われるかという結果をいかに手放すか。


自分が裸になって飛び込むと、自分と言葉が一致する瞬間があります。

ただ一度言えたと思っても、次に言えるかどうかは分かりません。

対話を重ねる中で、やっとわかり合える関係性が出来ても、人はまたそこに「快適」という枠を作ります。

快適な関係性さえも枠になるのです。

そういうとき、私は言葉を見失います。
本当の言葉が浮かばなくなります。


また、それをゼロに戻すには、大変な勇気が必要です。
信頼という安心感が生まれていれば、尚更です。


ただ、信頼というのは幻です。
そこにあるのは、ただあなたといい関係を作りたいと願っている自分がいるだけ。

願いを持った自分が裸になって飛び込んだ先に、また新たな関係が生まれます。

不安定の連続が結果的により深いつながりを生み出します。
これは、もともと「ひとつ」というオリジナルな人間に戻っていく過程かもしれません。


本当の声とは、「ひとつ」から生まれる声。

自分の中の「ひとつ」から生まれる言葉。
相手との「ひとつ」から生まれる言葉。

少し言葉にしてみましたが、まだまだ言葉になっていませんね。

道を進む中で、きっと本当の言葉に出会えていくのだと思います。

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