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話しても話さなくてもいい 本当の言葉が降りてくる「無為」のアプローチ


前回の記事で「考えていることに気づく」状態から、「考えが起こっていることに気づく」ことへの転換があったとお伝えしました。

(前回の記事を読んでいない方はこちらから読めます)
https://note.com/zen_akano/n/n0c1b3a3141e4

今回は、そのことについて、もう少し詳しく言葉にしたいと思います。

心には、いろいろな状態があります。

まずは、何かが起こっているが、気づいていない状態です。
・考えているが、考えていることには気づいていない。
・緊張していて、緊張にのまれている。
・嫌いな誰かのことが頭から離れない。

次に、起こっている状態に気づいている状態です。
・考えていることに気づいている。
・緊張していることに気づいている。
・嫌いだという感情に気づいている。

坐禅では、自分の心と身体に気づくことを修行していきます。

最近、さらにもう一段階あることが分かってきました。

それは、「自分が考えているのか」、それとも「考えるということが起こっているのか」の違いです。

「自分が考えるのが当たり前ではないか」と思った方が多いのではないでしょうか。

普段は「自分が何かをする」という感覚かもしれません。

しかし、時に、自分ではない何かがやってくれていると感じる時はありませんか?私には、あります。

それは、このメルマガを書いているときです。

調子が良いときには、言葉がつぎつぎと降りてきます。これは自分が書いているというよりも、気がついたら書けているという感覚です。

調子が悪くなってくると、無理矢理言葉をひねり出さなくてはいけません。これは、何かを書くということを仕事にされている方は、誰しも経験していると思います。

新型コロナウィルスの問題が起きた2月から3月にかけて、原稿がほとんど書けませんでした。言葉が浮かんでこなくなったのです。非常に苦しい時間でした。

おかげさまで、3月末あたりから、再び言葉が降りてくるようになりました。ありがたいことにどんどん原稿が書けちゃうのです。溜まっていたマグマが一気に噴き出したようです。

考えて書くのと、考えが起こってくるのを言葉にする違いが少し分かってきたかもしれません。

まず第一に、パソコンを開くのを止めたことがよかったです。パソコンを前にすると、どうしても書こうとしてしまいます。まず、考えが起こってくるのを待つことができません。自分の中に「間」がないのです。

ノートを広げるようにしたことで、何かが起こってくるのを待つことができるようになりました。日によっては2時間ほど、ただ白紙のノートの前にいることもあります。山に行って、ただノートを広げることもあります。

そして、起こっていることをただメモするという行動をとることで、一週間ほど経った頃に一つのアイディアとしてまとまっていくという新たな流れが生まれました。

書けない時には、デジタル的アプローチよりも、アナログ的なアプローチの方が、有機的なつながりが生まれやすい。それが言葉になっていくのではないかと感じています。

これは、話すことにも言えます。これまで、話すことがある意味苦しみでした。自分が思っていることが話せていないのです。初対面だったり、とっさの出会いだったり、師匠との会話だったり。

人と会うと、緊張がはしります。そこで無理に話そうとしてしまい、何を言っているのかよく分からなくなるのです。そして、なんであんなことを言ったのだろうと自己嫌悪に陥ります。

「赤野さんはすごく楽しそうに話している」とよく言われます。それは嘘ではありません。でも、もっと本当の言葉があり、それを言えていないのです。

ただ、本当の言葉を話そうとするほど、言葉が出てこなくなります。そんな私に、やっと別のアプローチが見えてきました。それが「待つ」ことです。

最近は、無理に話していることも「起こっていること」を観察するようにしています。

緊張してすぐに愛想良く返事しようとしている。
間髪おかず返事しないといけないと思っている。
そういうことが起こっているのだと。

「自分がやっているのではなく、すべてご縁の中で自分に起こっている」という視点は面白いです。

自分も含めて、すべて有機的なご縁の顕れなのかもしれません。
今はそんな感じがしています。

そして、アナログ的なアプローチとして、一呼吸置くことを大事にしています。焦って自分が話そうとするのではなく、言葉が出てくるのを待つ間をとってみる。

出てこなければ無理に話さない。話しても話さなくてもいいという選択肢を持っておけるか。ここが肝心です。

言葉を探そうとすると本当の言葉は逃げていくのです。言葉が起こってくるのを待っているとやってきてくれる。「間」がとれると、すごく楽です。

もちろん、まだまだ話そう、話さなければと力んでいる自分もいます。それもただ起こっていることと理解できてくると、何か必死に頑張っている自分が愛おしくなってきます。

考えることを手放してみる、話すことを手放してみるというのは、自分という意志を手放すことでしょうか。自分を手放すと、空っぽな自分になっていきます。

まさに「無為」の心ですね。

空っぽの場所にいるときに、大きな力が働きはじめます。

これまでは、「苦しんでいるのは自分」と思っていました。それが、ご縁という大きな世界の中で、何かがやってきているという立ち位置ができたことで、感じる苦しみの質が変わりました。

いろいろな人や周りとのご縁の中で、苦しみという気持ちが自分にやってくる。それは自分の中に起こっていることではあるけれど、自分ではない。

いや違いますね。自分でもあり、自分でもない。

そういうあり方があることに気づくと、坐禅も変わってきました。

以前でしたら、いろいろ考えているのに気づいて、それを坐禅などで呼吸を意識することで、意識を転換するという風に理解していました。やってはいけないこと、嫌なもの、避けるべきものを変えようとしていたのです。

スポーツでも仕事でも、緊張した場面や嫌な状況では、心が動揺します。この動揺した状態が嫌だという方は多いと思います。

「いかに静かな心になるか」について、一般のメンタルトレーニングの色々なメソッドが紹介されています。

これは「心を変える」というアプローチです。何か不都合な心の状態からパフォーマンスが上がる心の状態に変え、嫌な思考から好きな思考に変えていくのです。

確かに短期的に見れば、効果が上がることがあります。ただ私は、オススメしていません。それは自然ではないからです。

心に人工的に手を加えると、どこまでも人工的なアプローチに頼らざるを得ません。

禅というアプローチは、いかに人工的なものを手放していくか。空っぽになっていくことで、自然な力が発露しはじめ、智慧が顕れてくるのです。

これも「無為」ですね。

焦っている→瞑想して心を静かに切り替える

これは、心を変えるアプローチです。変えるということは、ずっと「焦り」という状態が心の中に澱んだ水たまりのように残るということ。焦ることから懸命に逃げようとします。

無為のアプローチは、すべてのことは「ただ起こっている」ことと理解します。ジャッジしたり、逃げようとしたりしないのです。

緊張している→緊張が起こってきたことに気づく→緊張が嫌→嫌なんだという気持ちが起こってきたことに気づく→緊張が消えないことで焦ってくる→緊張が消えないことで焦るという感情や思考に気づく→・・・

こうして起こっていることにただ気づき、起こっていることをただ追いかけていると、心という川は流れていきます。こうしているうちに、いつか別のテーマに移っていきます。テーマが移るというのも、無為の自然な働きです。

起こるのも止めるのも、話すのも話さないのも意志決定ではなく、自然の働き。そのポジションにいると、それは冷静で客観的すぎるのではないかと思われる人もいるかもしれません。むしろ、さまざまな智慧が湧いてくるのです。もっと人間らしいのです。

たとえば無為のアプローチでは、好きと嫌いという感覚が少しずつ薄まっていきます。垣根がなくなっていくと言ってもいいかもしれません。好きと嫌いはあるけれど、選り好みしないという感じでしょうか。

こうして自分をあけ渡していくと、言葉が降りてくるようになりました。先日、師匠とオンラインで話す機会があったのですが、今までで一番楽な自分でいられました。素直に言葉が出てきました。

すぐに話さなくていいのです。一週間後に湧いてきたら、それでいいのです。それがあなたの智慧の言葉です。これが「起こってくることを待ってみる」というアプローチです。

ぜひ自分を空っぽにしていきましょう。


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