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人間らしさを失わないこと 絶望の中から希望が生まれる

今、新型コロナウィルスが猛威をふるう中で、この状況をどう捉えればよいのでしょうか。

私自身、日々自問自答しています。

何が起こっているのかは、考えても分かりません。
無理に今、答えを出す必要もないと思います。

感染者数や死者の数は報告されていますが、その奥にあるこの世界の動きはあまりにも激しく、あまりにも悲しく、あまりにも強いので、今理解するのは難しいです。

恐らく、この事態が収束したとき、何が起きていたのかが分かってくるのでしょう。

私たちは、恐怖を感じると、外が気になります。
外側で何が起こっているのかを理解しようとするのです。
そして、その状況の中で、どうしようかと考えます。

外側の状況が分からないと、焦ります。
そして、不安で何かに飛びつきたくなります。
それがたとえデマだとしても。

そうして、混乱はさらに深まります。
これは外側の世界に振り回されている状態です。

今、外側の状況に目を向けるよりも、大事なこと。

それは、「自分に何が起こっているのか」を意識することです。

ちなみに、noteの記事を書くのが難しくなっています。
いろんな状況の方がいるので、何を書けばよいのか分からなくなります。

これは目が外に向いている状態。

普段なら、この方向に目を向けてアイデアが降りてくるのですが、今、普段とは状況が違う中で、まずは自分を理解することが必要だと気づきました。

目を向ける方向を自分に切り替えると、言葉が降りてきました。

今、この状況の中で、2つの見方があります。

それは「楽観的に見る」のか「悲観的に見る」のか。

これはどちらが良い、悪いではありません。
その人の個性と言えます。

ちなみに、私は物事を不安から捉えるのが得意です。

そういう不安力が高い私から見ると、今は短期的な楽観的ポジションに立つのはよくないように感じます。

それは、失望になります。失望は諦めになっていきます。

コロナウィルスは、私たちが思っているよりも遙かに長引くと私は予想しています。

今、じわじわと私たちの心は蝕まれています。
今が正念場などではありません。

これからが正念場、正念場がずっと続くのです。
これからじわじわと壊れていき、一度はいろいろなものが焼け野原になるでしょう。

経済活動、これまでの価値観、人のつながり・・・

もちろん、そうならなければラッキーです。
私もそう願っています。

ただ、今は最悪を想定しておくことで、長期戦に備えるのが大事ではないしょうか。すごく悲観的な視点から、これからを見てみたいと思います。

オンラインでの会議やイベントなどが一気に増えて、お祭り騒ぎになっています。

これはこれでいいと思います。

お祭りは、短期的には心を盛り上げてくれるので、心を盛り上げるにはとても有効です。

ただ賑やかな後には、寂しさが来ます。

今はまだ余裕がある時期です。
人のことを考えられる余裕があります。
配慮があります。

しかし、余裕が徐々に減っていき、経済が壊れてきます。
そこで、収入が断たれる人とそうでない人が出てきて、断絶に繋がっていきます。

物品が不足してくると、買い占めが起こります。
運良く買えた人、買えなかった人。それを非難する人。

自分や家族を守ることしか考えられないときがきます。
弱者への思いやりがなくなるのです。

そして、人は疲れていきます。
疲れると、人の心は荒れていきます。

信じられなくなります。
他の人から奪おうとします。

人間の内面の弱さがすべて顕れてくるのです。

人間が人間に失望するでしょう。

ここで耐え抜くしぶとさが求められます。

それは、私たちが思っているよりも、もう一段も、二段も奥に隠れていた人間性を見ていくことになります。

ごまかせません。

怖い。
弱い。
自分のことだけ考える。
自分だけ助かろうとする。
人のことを考えられない。
抗う。
諦める。
奪う。
非難し合う。
断絶する。
攻撃する。
孤独から孤立へ。
冷静さから冷たさへ。

最悪の状況の中で、また最悪が更新されていきます。
ドン底かと思ったら、まだ底が抜けます。

どこまで落ちるか分からない恐怖の中で、人間はどうなっていくのでしょう。

人は耐えられるのでしょうか。

悪いことばかり書いて、気分を悪くされたら、すみません。

ただ、絶望の中から、希望が生まれると私は信じています。


それには、本当の不幸に気づく必要があります。


生半可な楽観的視点からは、失望と諦めしか生まれません。

そういう意味で、私たちは「苦難」に試されているといえます。


人間性を失わないこと。


今はこれだけで十分です。

ロサンゼルスでお世話になっている禅宗寺の小島秀明ご住職が今回の事態を受けて、メッセージを出されました。

苦しい中で生きるためには、「智慧」が大事だという部分に心が惹かれました。
http://www.zenshuji.org/articles/DharmaTalkVirusRevKojimaJpn.pdf

一部抜粋します。
---
智慧という言葉はもともとインドからきた仏教用語です。
すべての物事やその背景にある道理を見きわめ、正しく判断し、処理する心の働きです。
人間の苦しみを取り除く最大の鍵がこの智慧です。

(中略)

しかし智慧は知識とは違い情報からだけでは深まりません。
実践と経験を通して個々人が育んでいくしかないのが智慧です。
お釈迦様は五つの実践から智慧は生じると説かれました。

1布施 分け与える
2自戒 ルールを守る
3忍辱 耐え忍ぶ
4精進 努力を続ける
5禅定 心を安定させる
---
(ここまで引用)

今この状況に、1〜5のすべての力を動員する必要があります。
まさに私たちの「智慧」が試されていると言えます。


以下に、最近おこった赤野の智慧(気づき)をご紹介したいと思います。
(とっても小さな智慧ですし、これは違うのではないかと思われる方もいらっしゃると思います。あくまでも個人的見解ですので、ご容赦ください。)

何かの参考になれば嬉しいです。

1. 頭で考えていると、将来への不安や戸惑い、恐れ、自己防衛などが次々と浮かんできます。正直なところ、心地よくない時間です。

一方で、坐禅をしていると、違う声が聞こえてきます。

昨日は寝る前に少し坐っていました。
すると、柔らかい布団で眠れることのありがたさで、胸がいっぱいになりました。

とても幸せな感覚でした。

人間というのは、とてもちっぽけな存在。
それを思い出させてくれたのでしょうか。

希望と絶望
不安と幸せ
生と死

まったく違う2つの声の狭間で、瞬間瞬間、心が揺れています。
揺れるのは、なかなか苦しいですね。

かなり大きな揺れなので、バランスをとるのが大変です。
でも、いい訓練かなとも思っています。

いずれにしても、これまで体験したことがない「ご縁」と出会っているのだと思います。
ご縁が私たちを試しているのかもしれません。

「どう生きるのか?」と。


2. 最近、空が綺麗な気がします。
人間が苦しんでいる中で、自然は本来の姿を取り戻していきます。
これまでは、自然が苦しむ中で、人間が豊かさを手に入れていたのでしょうね。

つい目の前の現象を見て、悪者(と思われる側)をジャッジしてしまいがちです。

地球が本来の姿を取り戻していることにも「皮肉なことに…」などと、コロナを悪者にして勝手に先入観を持っている自分にハッとさせられます。

私たちの思考も静かに大きな変化をしている時期のようにも思えてなりません。

この静かな時間の中で、心が透き通っていくように感じています。
これまでにない気づきがいろいろあります。

街は静かですが、私の心は日々エキサイティングです。

コロナウィルスはいつか必ず収束します。
しかし、同じような日常に戻ったとしても、恐らくそれは発生前とは違う世界なのだと思います。

人は一度気づくと、もう気づいていないという状態には戻れませんから。

この事態が収束したときに、なかなかよくやったと言える自分でありたい。
そう行動したいと思います。


3. いつもならちょっと面倒くさい妻からの職場の愚痴。
愚痴を聞ける日常をありがたいと感じる今日この頃です。


4. 少しだけ寄付をしてみました。
たとえ微力であっても、少しでも人のお役に立ってみるって、自分の生きる活力になることに気づきました。

大きなことは無理でも、少しだけの善意は持ち続けたいと思います。
求めるエネルギーと与えるエネルギーは違います。
どちらが良い悪いではありません。

私の場合、求めることに偏っていました。
与えるという外側に発するエネルギーを強くすることで、バランスが良くなります。


5. 今日は、すごく気が荒い日でした。
車の運転もいつもより荒く、大きな声で話している人にも腹が立ったり、周りに対して心が逆立ったりします。

ニュースを見ていても、政府の対応が強くなるほど、コメンテーターの発言も強くなります。
周りが強くなると、自分の反応も強くなるのでしょうか。

「荒い」という自分の状態に気づくと、心が落ちついていきました。

一歩譲ろう。
一歩下がろう。
今日からそう生きよう。


6. 「考えていることに気づく」ことから、「考えが起こっていることに気づく」ことへの転換がありました。

「気づく」ことについても、「気づきが起こっている」という大きな働きが起こっています。

この説明ではよくわからないと思うので、またnoteに詳しく書こうと思います。

空っぽの場所にいるときに、大きな力が働きはじめます。
もっと、自分をあけ渡そうと思います。


7. 「他力」は安心感を与えてくれます。
念仏を称えていると、心が安心するのを感じます。

まさか阿弥陀さんが「まかせろ!!」とおっしゃっていたとは。
今までは、「自分が生きる」「生かされている」という2軸で世界を理解していましたが、さらに大きな何かが「私にまかせなさい」と言ってくれていたのは、知りませんでした。

人の中にも、「おせっかい」な自分はいます。
自分の中にいる「私にまかせなさい」という心を呼び覚ましたいと思います。


8. 好き嫌いに囚われている自分に気づきました。
好きを大事にして、嫌いを遠ざけると、楽しいことには、のめり込みます。
これでは、楽しいこととの距離が近すぎて、「好き」以外の真実が見えなくなります。

嫌いな人や嫌いなことは避けるか、攻撃します。
これでは、嫌いなものとの距離が遠すぎて、見えなくなります。

好き嫌いという入り口に囚われると、そこから奥にあることが見えなくなってしまいます。


私は、つい人も物事もえこひいきする癖が強いのです。
えこひいきされると嫌なのに、自分はえこひいきしていました。

好き嫌いが薄まってくると、見えてくるものがあると感じます。




今回も懸命に言葉を拾いました。
大きな言葉も小さな言葉も。
意味のある言葉もない言葉も。

お役に立ちそうな言葉も立ちそうにない言葉も。
悲観的な言葉も楽観的な言葉も。

そして、ようやく、ここまで書き上がりました。
私にとっては、言葉とともに生きることがとても大事なのだと思います。

こうやって書き出してみると、この一週間の間、いろいろな気づきが起こっていました。

とても人間らしく過ごせました。

これから長い戦いの中で、自分にがっかりもするときもあるでしょう。
人間性を失うときもあるでしょう。

それも仕方がありません。

また立ち直ります。
そうやって日々を人間らしく生きていきましょう。

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