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『ピンポン』 映画の中で活躍するペコ、スマイルたち。道を究めようとする男たちの戦い。

評価 ☆☆



あらすじ
卓球を取り巻く若者たちの戦いの中、小林は勝負に淡白なスマイルを敵対視していた。勝てば今後一切口出ししないが、負けたら小林に従うという賭けをする。スマイルは「君は絶対に負ける」とまで言われて本気を出そうとする。



今回はかつて雑誌に掲載した記事を紹介。2002年公開された『ピンポン』に関するもの。監督は曽利文彦、脚本は宮藤官九郎、出演は窪塚洋介、ARATA、中村獅童など。できれば『ピンポン』を観た後で読んだほうがわかりやすい。



以下がその文章。



『ウォーターボーイズ』を紹介した時、「従来のスポ根青春映画にはない"笑い"の要素がある」と説明した。笑いといっても、いわゆる"お笑い"ではなく、自然と笑ってしまうような充足感のことだ。「笑えるほどにスポーツが面白くなる瞬間」を意味している。『ピンポン』は、この"充足感"の到来を描いた作品だ。



『ピンポン』は人気漫画家である松本大洋の原作を、脚本家の宮藤官九郎と曽利文彦監督によって映画化された。天真爛漫で気分屋のペコ(窪塚洋介)と「卓球は死ぬまでの暇つぶし」と公言するクールなスマイル(ARATA)のふたりが中心。



彼らと、努力して這い上がった幼なじみのアクマ(大倉孝二)、中国からやってきたチャイナ(サム・リー)そして名門校のエースであるドラゴン(中村獅童)が、卓球で壮絶な戦いを繰り広げる。観終わると、この映画が従来の青春映画と大きく異なっていることに驚かされる。



この映画には恋愛やセックスそして暴力に関連するエピソードがない。登場人物たちはストイックなまでに卓球に熱中し、人生をかけて卓球を究めようとする。いまの若者たちに人気の物語には、恋愛やセックスではなく「道」を究める物語が多い。例えば宮本武蔵を題材にした漫画『バカボンド』、人気アニメ『ヒカルの碁』などにもセックスや恋物語はほとんどない。道を究めようとする人間たちの物語である。



従来の青春映画で描かれてきたセックスと暴力という手法もない。それらは『ピンポン』で描かれるパワーと爽快さの前に沈黙させられているかのようだ。もしかしたら、セックスや暴力で青春を語る手法は、すでに時代遅れになっているのかもしれない。



さらに『ピンポン』で驚かされるのは、"才能は不平等である"と言い切っているところだ。この点に関してはアクマのエピソードが象徴的である。彼は才能がないけれど卓球の名門校に入って努力して全国大会にやってくる。



しかし、スマイルと戦って負ける。「どうしてお前なんだよ。俺は努力したよ。お前の10倍、いや100倍 1000倍したよ(中略)卓球に全てを捧げてきたよ、なのにっ……」。これに対してスマイルはこう答える。「それはアクマに卓球の才能がないからだよ。単純にそれだけの話だ。大声を出すほどのことじゃない」。



教師と生徒との関係でも"才能は不平等である"と映画は主張する。かつてバタフライジョーと呼ばれた卓球部の顧問、小泉(竹中直人)はスマイルの才能を見出し、完全なえこひいきをして特訓をさせようとする。



もともと「教師は生徒に平等に接しなければいけない」という前提があるはずだが、映画ではそんな価値観は微塵も登場しない。「映画だから」と一笑しないでほしい。現実世界でも完全な平等などあり得るのだろうか? この映画では"才能は不平等である"ことを不快に描かれているわけではないどころか、ある共感を持って観客に伝わってくる。



人生は平等ではないし、人よりも努力しても報われない場合も少なくない。



みんなが運動会のかけっこで一等賞を取れるわけはない。それが現実。つまり"才能は不平等である"と認めることは、個性を伸ばすことにつながる。それは悪いことではないはずだ。



『ピンポン』は、才能があっても努力を伴わない限り、高いレベルに上がれないことも示唆する。そのことは、才能があり、努力を重ねたペコとドラゴンの壮絶な打ち合いに集約されている。ふたりが打ち合う戦いの中、一瞬、卓球会場は空に変わり、カモメが飛び交い、世界に二人だけが残されるという映像に変わる。



『2001年宇宙の旅』をも彷彿とさせる、このシュールな映像は、スポーツをしたことのある、何かに没頭した経験があれば共感できる境地だ。教師を目指す人なら『勉強の面白さ』と言い換えた方がわかりやすいかもしれない。問題を解きながら思わず「こんなにも数学って面白いんだ」あるいは「古文はこれほどに奥の深いものなのか」と、微笑んでしまう瞬間。忘我の境地と呼べるかもしれない。



ところで、教師が誰かに何かを教えることは、この学問の忘我の境地に至る手助けをすると言い換えることができる。ノーベル賞受賞者の小柴昌俊教授は、あるテレビ番組でこんなことを言っている。「子供は中学1、2年の理科の先生が好きか嫌いかで理科嫌いになったりする。子供は先生が好きだから教える教科が好きになる。その逆じゃない。子供に好きになられるには、第一に自分の教えている教科を好きじゃないとしょうがない」。この言葉は『ピンポン』の主張に似ている。学問の本当の面白さを知らない人間に、その教科を教えることなどできない。



ドラゴンは試合の後ペコに「また連れて行ってくれよ。ヒーロー」と満足そうに微笑む。忘我の境地を体感したふたりには勝つ、負けるといった優劣すら存在しない。『ピンポン』は、才能を努力によって磨いたものだけが体感できる充足感を示し、それを求めることが青春だと主張する。



これまでの青春映画にはあまり観られなかったタイプである。また『ピンポン』は我々に問いかける。子供たちに「先生、また教えてよ」とうれしそうに言われる教師はいったい何人いるのだろうか。学校の成績という枠を超え、学問そのものの楽しさに導ける教師が何人いるのだろうか。



以上である。



『ピンポン』は面白い映画だった。バタバタを伏線が多すぎる気がするけれど、それでも楽しめた。道を究めようとする人間たちの姿はいいものだ。



初出 「西参道シネマブログ」 2005-08-31



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