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『藁の楯』 あのラストはないよな。単独で書かれた脚本は面白くない。役者たちの努力が痛々しい。

評価 ☆



あらすじ
7歳の少女が殺害されて用水路に捨てられる事件が起こる。警察は容疑者として清丸国秀を捜査でマークする。清丸は8年前に少女を暴行殺害。先日出所したばかり。しかし現在のところ居所がわからず、警察の捜査は難航していた。



以前から気になっていたのだが、かつての面白い映画の脚本は決まって複数の脚本家が名前を連ねていた。中期の黒澤映画がその代表例だ。単独の脚本家の場合には微妙なところがある。



もちろん、複数の脚本家のクレジットが明記される際には、共同で一度に執筆する、ある人間が書いた脚本を別の人間がリライトするなどさまざまな方法がある。結果的にだが、単独で書かれている脚本よりも話に膨らみが生まれることが多いようだ。映画の脚本家にさほど個性は必要ない、というのが僕の持論。



2013年公開の邦画『藁の楯』を観た。監督は三池崇史。出演は藤原竜也、山崎努など。誰かがレビューを書いていたが、まさに「マイケルサンデル 究極の選択」的な思考実験。「あなたがブレーキの壊れた電車の運転手だとする。行く手に5人の人間がいることに気づく。脇にそれる線路待避線にはひとりしかいない。ひとりは殺してしまうけれども5人は助けることができる。どうする?」というような。同情の余地のない犯人を守る警察の存在意義とは? それがこの物語の命題として提示される。



考える分には面白い。しかし、映画は思考実験ではない。つきつめていくと必ず現実離れが生じる。『藁の楯』がリアルさを感じさせてくれないのはそのせいだろう。設定がリアルかどうかは問題ではない。



小栗旬主演のテレビドラマ『BORDER』が、死者と話ができる刑事という突拍子もない設定のわりに、非常にリアルな話に仕上がっているのは脚本が良いからだろう。



また『藁の楯』はエピソードがワンパターンすぎる。誰かの死によってトラウマを抱えている設定の人間が複数登場する。みんなが「こんなクズみたいな男を守る価値なんてあるのか?」という台詞ばかり並べる。



脚本家だけが悪いのではない。脚本を読んで「これではダメでしょう」と言わなかったのか? 出資したひとたちも、製作を決めた映画会社も、ダメぶりに指示をだせなかったということだ。このシステムに問題があるとしかいいようがない。



大沢たかお、松嶋菜々子、岸谷五朗、藤原竜也、山崎努たちは、この痛々しい破綻した物語をどうにかリアルなものにしようと努力している。そんな映画がカンヌに出品できたのは、想像だがワーナー・ブラザースの政治的な動きが影響しているのだろうね。どうでもいいことだけど。



映画は娯楽である。だからこそ根底にリアルさがないと面白くない。思考実験は大学でやってほしい。リスクを避ける方法として複数の脚本家による執筆の映画を観るべきだとアドバイスしておこう。



初出 「西参道シネマブログ」 2014-06-10



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