見出し画像

『ダークナイト』 ジョーカー役のヒース・レジャーがいい。絶対的な「正義」など存在しない。

評価 ☆☆☆



あらすじ
ゴッサムシティ銀行が道化師のマスクを着けた強盗たちに襲われた。この銀行にあったのはマフィアの金。リーダーであるジョーカーは、強盗たちに仲違いさせるように仕組んでいた。メンバー同士が殺し合いをしながら金を回収。結局ジョーカーだけが生き残り、すべての金と共に逃げていった。



『ダークナイト』は2008年公開された映画。監督はクリストファー・ノーラン。出演はクリスチャン・ベイル、ヒース・レジャーなど。映画評はどれも評価が高いが、的外れなものも多かったように思える。僕なりに考えた『ダークナイト』の分析は以下の通り。



この映画の肝はなんといってもバットマンとジョーカーの対立だろう。善と悪という二項対立の物語。前半は、善と悪の中間にいる判事の存在に注目してほしい。正義感あふれる判事は本当はどっち側か? ジョーカーはこの中間に位置する人間を悪の道に走らせちゃう、という物語に発展する。



二項対立の図式らしくバットマンとジョーカーは常にワンセットで登場する。バットマンのいない世界にジョーカーは存在しないし、ジョーカーのいない世界にバットマンはいない。ところが、この映画の面白いのは絶対悪は存在するが、絶対善はどこにも存在しないのではないか? という疑問提起がなされる点だろう。バットマンでさえ、贖罪としての悪、闇の騎士としてでなければ生きていけない存在ではないのか、というわけだ。



もっと突き進めればジョーカーは「死神」つまり絶対的な死だが、バットマンは「神」ではない。神に近づきたいと願う人間に過ぎない。だからこそ、闇の騎士(dark knight)とならざるをえない。絶対悪に対する絶対善はないのは子供向きではなく大人な意見。もし二項対立の図式でいえば絶対悪もないはずだから。



だからこそ、ジョーカーは悪にも善にもなるジョーカーになるが、死の化身としてのヒース・レジャーのジョーカーには人間的な部分がない。ゲーテの『ファウスト』のメフィストっぽい子供らしさでしか描かれていない。



この映画からバットマン=アメリカと考えることも可能である。アメリカこそがイエス・キリスト的に周囲から非難を受けながらも、正義のために法を犯すこともする。それでいて闇の騎士(dark knight)の存在として生き続ける、その苦悩を描いている。



映画としての出来はどうか? 物語の展開がバタバタしている。それに、多くの指摘があるようにヒロインに感情移入できない。これは致命的である。ただし、それ以外はクオリティが高い。マイケル・ケインもゲーリー・オールドマンも素晴らしい。



ちなみに小栗旬のテレビドラマ『ボーダー』シリーズもまた『ダークナイト』的正義の話。興味のあるひとは観て下さい。



初出 「西参道シネマブログ」 2009-03-30



ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?