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『演劇をすることのリハビリテーション』/リハビリテーションを終えて(山田由梨)


贅沢貧乏の山田由梨です。
12月4日から始まった「演劇をすることのリハビリテーション」が、12月23日に全て終了しました。
当初の目的通り、「演劇のリハビリ」ということはしっかり達成できたなという実感があり、さらに、今後演劇とどのように付き合っていけるか/付き合っていきたいかということが少し見えた気がしています。
この記事では実際にどのようにリハビリテーションを行なったのかの記録を記したいと思います。
なぜ「演劇のリハビリ」をしようと思ったのかの経緯については最初の記事をご覧ください〜


①「リハビリテーション」という言葉について


リハビリテーションと名付けたこのワークショップは、コロナ禍で多くの公演が中止になったことで演劇活動をする場が奪われてしまった俳優と共に、演劇をする習慣や感覚を取り戻していくことを目的としていました。
わたしたち自身、12月の海外公演の中止が決まったあと、どうする〜なにかやる〜?と相談したときに、公演を打つ!とか、作品をつくる!とかそういうことの前に、「ちょっとその前にリハビリ必要かも…」という気持ちがあり、この企画が生まれました。
ちょっとふざけ半分で「演劇のリハビリ」と名付けてから、実際にリハビリを行っていると、このネーミングはすごく的を得ていたかもしれないなあと思いました。
公演が中止になることって、「傷」だったよなあと思ったのです。
1年前とか、あるいはもっと前から準備していた、出演予定の公演がなくなるっていうことはすごく傷つくことだった。
そして中止になったあとも、演劇がなくなっても生活は続くし、生きていけてしまうわけで、そのことにも傷ついていた(あるいは戸惑っていた)のかもしれない。
悲しいことは悲しいけど、(誤解を恐れずいうと)「演劇がなくなっても普通に生きていけるよな」と思ってしまったことに。

今回のリハビリは、演劇をつくることの感覚を取り戻していくとともに、
コロナ以前のわたしはなぜ演劇をやっていたのか、演劇に何を求めるのか、なぜ必要なのか、ということを確かめていくような作業でもありました。

②リハビリのプロセス

リハビリの20日間は、
(1)参加者の話を聴く/話をするワーク
(2)身体を使ったワークショップ
(3)短いテキストをつかったグループワーク
(4)戯曲を使った創作
(5)オープンスタジオ(発表)
(6)フィードバック
という流れで行いました
まず1日目は、自分が現在考えていることを話すこと、人の話を聴くということだけをしました。
友人が夏にオンラインで開いていたワークショップに参加させてもらった時に、「とにかく15分間、人の話を遮らずに聴く」ということをしたのですが、
それがすごくよかったのです。
今回は、
・リハビリワークショップに参加することにした思い
・他のメディアや表現媒体がたくさんある中で、演劇に求めることとはなんですか?(つくる人として/みる人として)
・あなたはなぜ演劇をやっていますか??
などのお題をもとに15分間参加者全員に話してもらいました。
今年は、自粛している間それぞれたくさんのことを考えていたはずで、でもなかなか言葉にする機会もなかった(人と関わること自体が減ったし)。
だからそれを、意識的に言葉にするということがすごく大事なことだと思った。
ひとりでもやもやと考えていたことをシェアすると、頭の中が整理されて自分の現在地がクリアになるような感じがしました。
それから、これは劇団員の青山が言っていたことなのですが、
遮らずにただただ話を静かに聴いてもらうことで、
「この場では自分の話や意見を聴いてもらえる」という安心感や信頼関係が生まれてその後のクリエーションにとってとてもよい影響があったとのことでした。
日常生活で15分間その人の考えについて黙って話を聴く機会ってほとんどなくて、だからこそとても面白かったし、クリエーションをする上で、その人が今考えていることを知れたことは、その後のコミュニケーションにとても有効なものでした。
その後は、体を動かすワークを稽古のはじまりに日々行い、それから短編小説をつかったグループワークを数日やりました。
グループワークというのは、あるテキストを元に、演出家をおかず全員で意見を出し合いながらシーンを作るワークのこと。
今回のクリエーションでは、わたしがひとりで演出をして指示を出していくというつくり方ではなくて、全員でアイディアを出し合いながら稽古していきたかったので、そのためのいいステップになったような気がしています。
(この「みんなでつくる」って聞こえはいいけど、結構難しいことな気がしています。そのための条件を意識的に整えないと成功しないことだと思っています…)
それから実際に戯曲を使用し、10日間くらいでやれる限りのシーンをつくっていきました。

③使用したテキストについて

今回は、サラ・ケインの「4:48サイコシス」という戯曲のテキストを使ったワークショップを行いました。
今年の1月に友人が上演しているのを観てから興味を持っていたのですが、
コロナ禍になり少し演劇と距離ができていた時に、唯一読み返したいと手にとった戯曲でした。
この戯曲は、サラ・ケインというイギリスの劇作家が書きえてから上演を待たずに自殺をしてしまったということでも知られています。
彼女が自死してしまう直前に考えていたことが、かなり赤裸々に、直接的な言葉で書かれているのです。
通常の戯曲の形とは異なり、何人キャストが必要なのか、どういうシチュエーションなのか、書かれている言葉が誰のセリフなのかが指定されていない、詩のような形を成しています。
コロナ前には、あまりに強い言葉たちに目を背けたくなるような気持ちが少しあったけど、今年改めて読むと、「信じられる」「わかる」という思いに変わり、この戯曲がこうして後世に残っていて読めるということがとても有難いことだと感じるようになりました。

どのように上演するかの手がかりのない戯曲だからこそ、1シーン1シーン、丁寧に話し合い、それぞれがどのようにそのシーンを受け取ったかを話し合い、言葉を検証しながら演出していくことができたのがとてもよかった。

この戯曲を声に出して読み、身体を使って、演劇として立ち上げるプロセスは、「生きる」ことを考えることであり、「死にたい」を乗り越えていく行為のように感じました。
今回は冒頭の数シーンだけ実験的につくってみたけれど、いつか全編上演してみたいし、もう少し詳しく考察していつか言葉にしてみたい。

④稽古場見学とオープンスタジオについて

今回は稽古の後半で、演劇関係者向けに稽古場見学日を設けました。
稽古場見学者を募集したことって今までなかったし、稽古している側からすると、稽古みてて楽しいかな?と不安になってしまったりするのですが、
どうやら楽しんでいただけたようで、「稽古場の空気を吸うことで少しリハビリできた気がする」と言ってもらったりもしました。(よかった〜)

稽古をみて感想をもらって、意見交換することはすごく有意義だったし、
稽古場で起きていることを少し俯瞰して考えるタイミングになったこともよかった。稽古場見学はこれからの稽古場でもやってみてもいいかもしれないなあと思ってます。演劇をつくる人に限らず。
オープンスタジオの方では、できあがったシーンをみてもらいそれについて意見を交わすということをしました。
「演劇をみることのリハビリをしたい人」という名目で募集をしていたのですが、
参加者の何人かの方は、コロナ前にはよく演劇をみていたけどコロナ禍になってから全くみに行かなくなってしまったという人もやはりいて、
「演劇をみるって、ライブをみるって、こういう感じだったな…」と思い出したという意見をもらえたのがよかったです。
ライブや演劇をみなくても生きているけど、それはすごくつまらないことだと思った、という意見が印象的でした。。(ですよね。)

⑤リハビリを終えて、今度の演劇活動について

わたしにとって演劇を上演するということは究極に贅沢なコミュニケーションで、わたしはそのコミュニケーションを求めているから演劇をするのかもしれないと
今回の一連のリハビリを通して考えていました。
その時に(意識的に/無意識に)考えていること・感じていることが、つくった作品の中に表現されて、それについて感想や意見をもらい、そこから対話が生まれることって、わたしにとっては何にも替えがたいものなのでした。
それから、興業としての公演以外の演劇活動/上演に合わせた稽古ではない「稽古」そのものが持つ可能性についても考えました。
今回は、上演が目的ではなく、演劇をつくる人(俳優)および演劇をみる人のリハビリを目的としていたので、
テキストも全てのシーンを立ち上げようとせず、できるところまで、無理のない範囲で稽古しました。
だから、焦ることもなく、プロセスに重きを置いて毎日稽古をすることができた。
そんな稽古をしていたら、動員やスケジュールのことを気にしないで創作をすることでしか生まれない時間や、空間があるということに気づいてしまったのです。。
そしてそれが面白いということに。。
これから、どうしたらそのような創作現場をつくることができ、且つ、その過程を経てできた作品を、お客さんにみせることができるかを考えていった方がいいのかもしれないと思ってます。
短期間で、突貫工事的に作るのではなく、しっかり時間をかけて育てていくようなつくり方。
上演だけを目的とした場合、上演が中止になってしまった時に希望が失われるというか、完全に心が折れる、みたいな状態になるけれど、
プロセスに重点を置けばそのダメージが少なくなるのかもしれないという予感があります。

ある一時の環境によって中止を余儀なくされたとしても、ただじゃ崩れないような作品の育て方について考えたい。
そして、そのプロセスを観客と良い形で共有していくということについても。
(正直なところ、演劇ってみるのも面白いけど、絶対的につくる方が面白いと思っていて、だからこそつくっているところをみてもらうのは、やっぱりいいことなのかも)
ちょっと話が逸れるんですけど、コロナの時に「わたしたちって未来の奴隷になりすぎなんじゃ…」ということを考えてました。
それは、あの「勝負の2週間」がどんどん更新されて、ずっと「勝負の2週間」だった時に考えたことなんですけど、(今は勝負の3週間ですね)
「未来の感染者数を減らすために今は我慢」というのはもっともなのだけど、今現在のわたしたちの生活は大事じゃないのか?っていうことを考えていた。
今のわたしたちは、未来のわたしたちの奴隷か?と。
思えばわたしたちの人生って、結構未来の奴隷になりがち。
いい学校に入るために我慢して受験、いい就職先のためにインターンして就活とか、家を買うためにローンを組む、とか、未来に何かを得るために生きているところがある。
未来の奴隷にならないためには成果より、プロセスの方を大切にするということがキーなのかもしれないです。
わたしにとって自分の劇団で演劇をするということは、仕事としてやっているというよりも、どうせ死ぬ人生の死ぬまでの間の人生を、より面白く過ごすためにやっているんだよな、と割り切るような気持ちになりました。
それはアンプロフェッショナルということではなく、たぶんそう思っているほうがいい作品ができる。
そして、みる人の人生のある一瞬が面白くなればいいと思う。
最終日のフィードバックの時、俳優のひとりが「生活に必要のないことについて真剣に考えることがわたしにとってはとても必要なことだということに気づいた」と言っていて、
なんだか今年は演劇や文化芸術は必要かみたいな論争が沸き起こったこともあったけど、この言葉が答えを言い表しているような気がしました。
長々と書きました。読んでくれる人いるのかな。
それではよいお年を!


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