見出し画像

瞑想の考え方②「仏はお前だ」....即心是仏

マインドフルネス瞑想の元となったのは仏教の瞑想、つまり「坐禅」です。(一般的に『座禅』と書く場合が多いですが、正確には『坐』の字を使います。)

さて、仏教徒はなぜ坐禅をするのでしょうか? そもそも仏教というのは「修行して悟りを開く(開祖ブッダと同じ状態に成る=成仏)」ことを目的として活動しているものだと、一般的には解釈されています。特に禅宗の場合は坐禅をタップリやるイメージがありますし、東南アジアの仏教(上座部仏教)もとことん瞑想をやります。彼らが長時間の瞑想修行に耐えるのも、それは仏に成るために必要な修行なのだ、というわけです。

しかし、禅の歴史を紐解いてみると、その結論にはどうしても疑問符がついてしまう。『中国禅宗史』の冒頭で著者の小川隆は、

「禅」が坐禅の意味ならば、「禅宗」が坐禅の宗派と定義されるのはいかにも当然のことのように思われる。だが、ほんとうに、そうなのか?
ちくま学芸文庫『中国禅宗史』(p.23)

と述べています。それはなぜかというと、禅の書物の中には「坐禅を斥ける禅者のことばに事欠かない」(p.24)からです。....禅宗なのに坐禅をするなとは一体どういうことなのか?

そこで出てくるのが、この記事のタイトルにもある「即心是仏そくしんぜぶつ、つまり心はそのまま仏であるという考え方です。

人はそもそも仏である

これは冗談で言っているのではありませんし、私が経典の一部だけを曲解して無理やりセンセーショナルな結論を捻り出したわけでもありません。(そして、人には最初からブッダ・スーパーパワーが備わっていて誰でもスピリチュアルな奇跡が起こせるんだという意味でも当然ありません。)実際、江戸時代の日本の禅僧・白隠が残した『坐禅和讃』は、衆生しゅじょう本来仏なり」(我々は本来仏である)という言葉から始まっています。

参考:臨済宗洪福寺 白隠禅師坐禅和讃翻訳
https://koufukuji.yokohama/scripture/12

上は日本の事例ですが、禅宗はそもそも中国で始まりました。即心是仏ということが推し進められたのは唐の時代の禅です。
その時代には臨済りんざい義玄ぎげんという高名な禅僧がいました。その彼の言葉を残したものが、語録の中の語録と称される臨済録りんざいろくです。先程のサイトは「臨済宗洪福寺」とありますが、その「臨済」です。(....といっても日本の臨済宗は臨済本人とはあまり関係ありませんが。)

臨済が残した言葉はどれも強烈なものばかりです。「仏に逢うては仏を殺せ」というフレーズはわりと有名ですが、これも臨済録にある発言です。

臨済録には「お釈迦様のありがたい教えを守りましょう」みたいな話は一切出てきません。むしろその逆のことばかり出てきます。「経典なんかケツを拭く紙だ」(不浄を拭うの故紙なり)とか、「仏を究極のものと考えるな。あんなのは便所のようなものだ」(仏を将って究竟と為すこと莫れ。我れ見るに猶お厠孔の如し)とか滅茶苦茶なことを平気で言ってくる。

壁に向かって坐禅をし、舌で上の顎を支えて、じっとして動かず、それを祖師門下の仏法だと思っている。大間違いだ。もし君たちがその不動清浄の境地をもって正しい悟りだとしたならば、それは無明煩悩を自らの主人とするのと同じことだ。
(入谷義高訳註『臨済録』岩波文庫p.111)

なんでこんなハチャメチャな事ばかり言っているのでしょうか。それは、まさに即心是仏、お前が仏だからに他なりません。

聖でもなければ凡でもない

臨済が厳しく非難するのは、「聖なるもの」の力を外に(自分以外の場所に)求めてしまうことでした。普通の修行僧は、聖なるお釈迦様のありがたい教えを守って修行をすれば、いつか自分も聖なる力が身につくのだと(そしてその力に助けて貰えるのだと)素朴に信じている。そのような弟子たちに対して、臨済はこう言います。

もし君たちが外に向かって求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。君たち、その祖仏に会いたいと思うか。今わしの面前でこの説法を聴いている君こそがそれだ。
(入谷義高訳註『臨済録』岩波文庫p.35)

祖仏とはつまり仏教の開祖・仏陀その人です。その仏陀の力はそのままの君たちなのだと説くわけです。

ここで「なるほど! じゃあ修行をして清浄な状態になれば仏の力が表に出てくるんだ!」といって修行をするようなことは、臨済は認めません。先ほど引用した「大間違いだ」という文章は、そういう文脈で登場した物です。「坐禅をしていたらナントカ如来のお姿が見えました」なんてことは全くの迷妄であり、ゆえに「仏に逢うては仏を殺せ」というわけです。

そして、「聖なる力による奇跡の超常現象」みたいなことも、臨済は痛烈に否定します。

諸君、まずは平常あたりまえであれ。わざとらしいフリをするな。よしあしをわきまえぬある種のハゲ坊主どもは、神おろしのようなマネをして、東を指さしたり西に線を引くような所作をして、やれ「よい天気だ」、やれ「恵みの雨だ」、などとのたもうておる。(中略)本来なんの過不足もない「好人家の男女よき家の子ら」ともいうべき汝らが、そういう狐狸のようなインチキ坊主にたぶらかされて、なにかというと奇妙なマネをやる。痴れ者めが!
(小川隆『臨済録 禅の語録のことばと思想』岩波書店p.111-112)

では、臨済のいう「仏」とはなんなのか? それは超常現象でもなんでもなく、ただ人間の生き身そのもののありさま、普段我々が忘れているヒト本来の感覚と作用、もっと簡単にいうと「人間の力」です。

赤肉団上に一無位の真人有って、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ
(入谷義高訳註『臨済録』岩波文庫p.20)

「この生き身の体の上には"無位むい真人しんにん"が有って、常にお前たちの六根(=感覚器)からも出入りしている。未だそれを確かめておらん者は、見よ!見よ!」
(※:この箇所は「面門」を「六根」と現代語訳しましたが、これは小川隆『臨済録 禅の語録のことばと思想』の解釈に倣ったものです。)

つまり、自分たちの感覚の中にこそ大切なものが潜んでいて、それをみんな見過ごしている。だから臨済は弟子たちに対して、お前自身を「見よ」と迫っているというわけです。
しかしその意図は弟子に届かず、「無位の真人とはなんですか?」と臨済に聴いてしまうのですが、臨済は彼の胸ぐらを掴んで「お前ほんとクソだな」(是れ什麽の乾屎橛ぞ)と言い放ちその場を去るのでした。

「ありのままの自分」と言っても、飲む・打つ・買う等うつつを抜かし、時に悪事を働くような凡人・悪人の「ありのまま」ではない。そのことは、上のやりとりからも明らかです。
また、「仏」「無位の真人」と言っても、何か超常的な聖なる力でもなければ、人間を超えた力でもない。それはむしろ「人間本来の力」というべきものです。

以前の記事で、仏教の中道とは「AとBのどちらでもない」ものだと書きましたが、臨済の禅とは「聖でも凡でもない」中道なのだということが言えるでしょう。

だから、瞑想というのは「教えを守ってお手本通りに盲目的に従う」ことではありません。「そのままでいいよ」というような腑抜けた現状肯定でもありません。あなた本来の力を、あなた自身が、あなたの感覚で確かめる。そういう営みなのです。

今回の参考文献:

(有料部分はお礼メッセージになっています)

ここから先は

133字

¥ 200

サポートしていただくと生活費の足しになります。お気持ちで結構です。