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北条政子と私 ~19万の武士の心を掴む女性~

◆落胆と安心と弱い心と好奇心

読みたいことを、書けばいい。
は、私の人生の中で想い出の1冊となり、愛読書となり繰り返し何度も読んでいる本だ。

この本との出会いが私のこの3年間の人生を変えたといっても言い過ぎではない。

著者の田中泰延さんの考え方についても多く、私の人生の中で影響を与えたところも多く、ものすごく感謝をしている。

その田中さんが著者としての新しい本を計画中という。

田中泰延がSBクリエイティブ社新刊の「共著者」を募っています

最初に投稿された時。
中身を読むまで「応募してみようかな」と思ったが
年齢制限があることに「そうだよな」とガッカリしたような
素直な気持ちだと安心したような思いがあった。

募集をされているテーマ

■論文テーマ
『私と北条政子』
3000字以上~1万字以内で、自由にお書きください。

を見た時に全く自信が無かった
私は戦国時代の武将が好きで最近は『北条氏』が好きで
小田原などにも足を運んだり、北条五代の合戦場などにも足を運んで
大好きな武将やどのように北条氏が発展して滅んでいったのかを調べて満足している。

でもこの『北条氏』は、俗にいう『後北条氏』であり
執権北条氏からの直接的な血の繋がりは確認できていない。

またこんなに戦国時代な好きな私も鎌倉時代については
有名な戦いやエピソードを知っているレベルで、
北条政子については『源頼朝の妻』という知識しかなく
また大河ドラマについても全く見ていないのでわからない

41歳として正直恥ずかしいレベルの知識しかない
それが故に下記の田中さんのフォローのような内容についても

これ、難しいかもしれませんが、
いま話題の大河ドラマですし、
難しいといっても
『承久の変における北条政子の尊王思想に対する政治的立場を
「吾妻鏡」以外の文献を用いて明らかにせよ』
みたいな課題じゃないんです。

田中泰延がSBクリエイティブ社新刊の「共著者」を募っています
の掲載文より引用

承久の変って何?
吾妻鏡って何?

そもそも「尊王思想」という言葉があるような帝との関係って何かあったのか
という同じ日本語して説明をいただいているのに
英会話の長文を読む際に「そもそも書いてある単語の意味が全くわからない
という状態だったのである。

そんな訳で『やらなくて良い』理由を見つけた私
『年齢制限があるんじゃ応募できなくてもしょうがないな』というカッコ悪い安心感で、この募集を読んでいたのである。

ただ、この記事を読んだのも何かの縁とは思い、
全く知らない北条政子について調べはじめた

平日は図書館などに行けないので
ザックリとした内容を検索できる範囲で頭に入れた。

「日本三大悪女の1人」として言われていること。
「悪女なのか賢女なのか」評価の分かれる女性であること。
「悪女としての有名なエピソードが嫉妬深く、夫の源頼朝が不倫をしたことを知った際に相手の女性の家を壊したこと」があること。
「源頼朝が亡くなった後に執権北条氏の体制を作り『承久の変』でも鎌倉の武士を励ました有名な演説のエピソード」があること。

「鎌倉時代の後期に北条氏が編集を加えて記録した『吾妻鏡』が鎌倉時代を語る上で重要な参考資料」となること。

平日に仕事が終わってから、これらを調べていく時間は、
全く知らなかった鎌倉時代が私の中でかなり整理されて知識として溜まっていく楽しい時間だった

そうすると、先に書いたフォローとして書いてあった内容の意味がわかるようになったのである。

これ、難しいかもしれませんが、
いま話題の大河ドラマですし、
難しいといっても
『承久の変における北条政子の尊王思想に対する政治的立場を
「吾妻鏡」以外の文献を用いて明らかにせよ』
みたいな課題じゃないんです。

田中泰延がSBクリエイティブ社新刊の「共著者」を募っています
の掲載文より引用

読める…。読めるぞ…。
わからなかったことが、わかりはじめると非常に楽しいものである。

鎌倉時代には、どんな文献があって
一次資料となりそうな内容は何か。
そもそも「吾妻鏡」については一次資料として定義をして良いのか。

ということが私の中でグルグルとまわりはじめた。

「吾妻鏡」が一次資料で無いとすれば、
何が一次資料となるのだろうか「明月記」だろうか「玉葉」だろうか。
そもそも日記が一次資料になるのであろうか。
この時は基本中の基本を私は全く理解していなかった

◆いざ国立国会図書館へ

読みたいことを、書けばいい。
が私の想い出の1冊で愛読書とか言っておきながら、
私は国立国会図書館に行ったことが無い本当に恥ずかしい

今回のテーマについて何かを調べるについて
読みたいことを、書けばいい。にも記載があるように
『国立国会図書館で一次資料にあたる』は応募の最低条件のように思った

何事も経験だ。

今回のことを良い経験として、
まずは「国立国会図書館」に行ってみた。

事前に仮登録を済ませて、国立国会図書館の新館1階にて身分証明書の提示をして本登録への移行を行い国立国会図書館に入場できるようになった。

非常に綺麗な建物で外の暑さを忘れる空調の適温。
また働く全ての人がとても親切である
この点は非常に強調しておきたい点である。
「わからないので教えて欲しい」という相談にキチンと答えてくれる

いくつかのインフォメーションなどで「北条政子について調べたい」と初心者100%での相談をしたところ、『人文総合情報室』という部屋があり
そこでのフロアに司書の方に相談をすると良いのでは無いかと教えていただいた。
人文総合情報室では司書の方に丁寧にPCの使い方、本の検索や人物としての概要の調べ方を教えていただいた

◆読めない…全く読めない…。

一次資料が何になるか問題を置いておいて、
まずは「吾妻鏡」などの一番古い資料を調べて確認してみよう。

読めない…全く読めない…。
そもそも何が書いてあるのかの文字としての認識が全くできない。
良く考えればそうである。

何が一次資料になるかとして文献がわかったとしても書いてあることが全く理解できない。
他の資料についても色々と調べてもみたが、漢文だけのものなどもあり
全く理解できない。

田中泰延さんは早稲田大学で漢文などの専門の学部であったかもしれないが
私は完全な素人である。一次資料がそもそも読めない問題は致命傷である
ウキウキしていた気持ちに暗雲が漂いはじめた。

◆巨人の肩に乗る

そもそも私が大学生で「北条政子と私」というレポートを1万字書いてください。という課題があったとしたらどうするのだろうか。

この視点で司書さんに相談をしてみた。
「MLAハンドブック第8版」
「シカゴ・スタイル 研究論文執筆マニュアル」
「学術論文の技法」
「レポートの組み立て方」
「レポート・論文作成のための引用・参考文献の書き方」
などの本を持って来てくれた。

全ての本に目を通して自分なりに要約をしてみると
・何かの本について「まとめ」を書いただけでは駄目
・何かの本についての著者の考えをまるまる自分の言葉のように書いても駄目
・何かの調べるテーマについて比較と検討と文の引用を行い、自分なりの考えを書くと良い

ということだった。

私は考えた。「読みたいことを、書けばいい。」の一文を思い出す

172ページでの第3章その5のタイトルは 巨人の肩に乗る である。

読み返してみると174ページにはこのような記載がある

ちまたにあふれるネット上の文章には、これが実に多い。そんなこと、先人がさんざん考察して大昔に語りつくしとるわ、
というようなことを、自分の頭で考えようとして、得意げに結論をぶちかますような随筆だらけである。

(※読みたいことを、書けばいい。 田中奏延 著 P174より引用)

またこうも書いてある。

前の項で述べた「図書館」で「一次資料」に当たれという話はひとえに「巨人の肩に乗る」ためである。
巨人の肩に乗る、というのは「ここまでは議論の余地がありませんね。ここから先の話をしますけど」という姿勢なのだ。

(※読みたいことを、書けばいい。 田中奏延 著 P179より引用)

なるほど、私がしないといけないことを考えた。

資料を調べた上で、今まで多くの人が「北条政子」について研究をしている
その中で、何かのポイントを見つけて、今まではこの行動やこの表記については、こういう内容でありましたが、そこから先の私の考えについては~
という内容を書かないとまるで意味がないのである。

PCに向かい「北条政子」と打ち込み
人物辞書を引きなおして「北条政子」について改めて調べなおした。
何が事実で何が創作か。

どんなことが議論をされていて、今までの研究ではどんなことをテーマに語られることが多いのか。
とにかく色々な資料や図書などを調べて読んでいく。

すでに何度も何度も反復して調べているテーマの内容なので
「北条政子」という人物についてはどういう歴史の年表なのかはすでに頭にザックリと入っている。
各辞書や図書での事実とされている内容を纏めて記載をすると下記となる。

北条政子 1157年-1225年

1157年 伊豆の武士「北条時政」の娘として生まれる
1180年 吾妻鏡に源頼朝の正室として登場
1182年 後の第2代将軍頼家を産む
1192年 後の第3代将軍実朝を産む
1199年 源頼朝が死去、出家して尼となる。
同年  源頼家が2代目将軍に就任。宿老御家人13人による合議制を成立させる。
1203年 比企能員の変がおこる。源頼家が修弾寺に幽閉される。
同年  源実朝が3代目将軍に就任。
1205年 畠山重忠の乱がおこる。弟の北条義時と結び、北条時政を伊豆北条に幽閉する。
1218年 出家の身で従三位に叙せられ、やがて従ニ位に昇った。
1219年 源実朝が鶴岡八幡宮にて暗殺される。
同年  藤原頼経を第4代将軍として迎える。
1221年 承久の乱がおこる。幕府軍として参集した御家人を激励する。
1224年 北条義時が死去。執権職を長子の泰時に継がせ執権政治を安泰させる。
1225年 北条政子が病気の為に死去。69歳。

私が1から「北条政子」について調べるよりもすでに多くの方が
「北条政子」について研究と議論を行い、様々な見解での本が多く出版されているのである。
自分なりにこれらの本をとにかく多く目を通して、どのようなことが書かれているのか
またそこから考えるすでに多く議論されているポイントを見つけていきたい
と考えた。

図書館の中で、様々な図書に目を通してみると色々なことがわかってきた。

面白おかしく言われる悪女像よりも、愛に溢れる強い女性像としてのエピソードや好意的な文献が多いのである

また「北条政子」についての研究や取り上げる図書において著者が『女性』であれば好意的に書いてある傾向が多いのである。

◆女人入眼の日本国

多くの本の中で、その中でも4冊の本が私の注目して読み込んだ図書となった。

北条政子  渡辺保 著 吉川弘文館 
北条政子:尼将軍の時代 野村育世 著 吉川弘文館 
女人政治の中世:北条政子と日野富子 田端泰子 著 吉川弘文館 
史伝北条政子:鎌倉幕府を導いた尼将軍 山本みなみ 著 NHK出版

この図書の中ではすべて著者が異なるが研究の1つとして同一の資料の同一の箇所についての記載があったのである。

その資料は北条政子と誕生年も没年もほぼ同一の天台座主である慈円(1155年-1225年)が纏めた「愚管抄」の第6巻にある『女人入眼の日本国』という記載について
女性の著者は好意的にとらえて男性の著者はそう捉えていない

それぞれの図書の中でその箇所を引用記載してどのように述べているかを整理して記載してみたいと思う。

●北条政子:尼将軍の時代 野村育世 著

女人入眼の日本国
北条政子に関する同時代の評価には、慈円の『愚管抄』がある。
(中略)
承久の乱前夜の風雲急を告ぐ政局のただ中、鎌倉では北条政子が、京都では卿二位が実権を握っていた。
つまり東西ともに女性が政権を握っていたのである。これについて天台座主慈円はその著書『愚管抄』に次のように記している。
女人入眼の日本国いよいよまこと也けりと云べきにや。(『愚管抄』巻六)
(中略)
慈円の書いた歴史書『愚管抄』には、この「女人入眼」という言葉がひんぱんに登場する。日本の歴史では、しばしば女性が、
あたかも仏師が仏像に眼を入れるように、歴史の上に登場をして重要な役割を果たす、というのである。

(※北条政子:尼将軍の時代 野村育世 著 P140及びP141より引用抜粋)

●女人政治の中世:北条政子と日野富子 田端泰子 著

慈円は『愚管抄』(巻第六)の中で次のようにのべる。
時正(政)ガムスメノ、実朝・頼家ガ母イキ残リタルガ世ニテ有ニヤ。(中略)此イモウトセウトシテ
関東ヲバヲコナイテ有ケリ。京ニハ卿二位ヒシト世ヲ取タリ。女人入眼ノ日本国イヨイヨマコト也ケリト云ベキニヤ。
京でも鎌倉でも、女性が執政する姿があり、そのことから「女人入眼の日本国」が中世では実現していたとしている。
入眼とは、画工が絵を画く時に眼の中に瞳を画き入れることによって仕上げをすることである。
したがって「女人入眼」とは、女性が生命を吹き込まれて、生き生きと活躍しているありさまを指すのである。

(※女人政治の中世:北条政子と日野富子 田端泰子 著 P4及びP5より引用)

●史伝北条政子:鎌倉幕府を導いた尼将軍 山本みなみ 著

なお、慈円は、この東西の女性政治家の対面をみて、次のように評している。
「女人入眼の日本国、いよいよまことなりけりと云ふべきにや」。すなわち、日本国というのは、
女性が最後の仕上げをする国なのだという。皇子の鎌倉殿就任という日本国の統治に大きくかかわる重要な局面を迎えたとき、その一翼を政子は担ったのであった。

(※史伝北条政子:鎌倉幕府を導いた尼将軍 山本みなみ 著 P169より引用)

●北条政子 渡辺保 著

『愚管抄』によれば、兼子はしばしば政子の宿所を訪ねて話し合った、とある。事実であろう。兼子は政子より二つ年長でこのとき六十四歳。
この京・鎌倉の両実力者を並べて慈円は「女人入眼ノ日本国、イヨイヨマコトナリケリト云ベキニヤ」と皮肉っているが、
仏法・王法を至上とする慈円の目からは、嘆かわしい末世の姿と映ったのであろう。

(※北条政子 渡辺保 著 P135より引用)

どうであろうか。ビックリするほどに同じ出来事の同じ箇所をみる評価が異なっている
ただし、1つフォローをすると歴史学者の渡辺保さんが書いた北条政子の初版年は調べてみると1961年である
当時の日本での時代背景を考えると、同じ出来事を自分の時代に照らし、女性の政治参加という出来事を解釈をしていたという可能性はある。

私個人としては、皮肉としてではなく生き生きと女性が活躍しているありさま「女人入眼の日本国」という表現で書いたのではないかと思った。
鎌倉時代から現代までを考えて、このような女性が生き生きと政治を仕切り活躍していたことがあっただろうか。
北条政子は朝廷からも評価される、幕府の中心的な人物として評価をされる人物であった

◆源実朝の暗殺と尼将軍誕生

さきほどの年評にも書いたが、尼でありながら「従ニ位」という高い官位を与えられた。そして翌年の1219年に大事件が発生してしまう
3代目将軍の源実朝が鶴岡八幡宮にて暗殺されてしまうのである。
源頼朝と北条政子での血を引く源氏将軍が途絶えてしまった
息子が暗殺された怒り。北条政子はこの混乱期に鎌倉幕府を守ろうと自らが先頭として立て直しを図っていく。

立て直しを行う為に帝のいる京都から将軍にきてもらうように正式に依頼を行った。
京都からは九条道家の四男「三寅」が鎌倉に行くことになった。
四男「三寅」(後の藤原頼経)は当時2歳2歳が鎌倉幕府での第4代将軍として誕生した
実質的には北条政子が将軍を補佐して混乱する鎌倉の鎮静に努めた。
この時の様子から「尼将軍」という呼称が誕生したようである

鎌倉時代から現代の時代までを振り返り政治の最高権力者として、女性が記録されるということは快挙である
現在での政治の中心、内閣総理大臣でも女性が誕生したことは無い
教科書などの現在での公式な記録としては北条政子は将軍として記録されていないが「吾妻鏡」などでは歴代将軍としての記載がある。

少なくとも公式的な将軍では無いものの実質的に将軍職としての働きを行っていたのは疑う余地が無いのではないか。

◆日本歴史上での転換期「承久の乱」と「カマクラ・ミタリー・ガバメント」

1221年に日本歴史上での転換期「承久の乱」が発生する
北条政子と共に鎌倉幕府で実質的に政治を行っていた「北条義時」の追討を後鳥羽上皇が行ったのである。
これは鎌倉幕府が「朝敵」となったことを意味していた。
ここまでの日本国の歴史の中で「朝敵」となった勢力が負けた以外の事例はなく
それまでは「朝廷」が日本国の中で圧倒的な権力を握っていた

しかし、「朝敵」となった鎌倉幕府は違っていた
動揺をする鎌倉幕府軍の兵を前に北条政子が歴史に残る大演説を行い
鎌倉武士の心を掴み19万という大軍勢を集めて京にのぼり勝利をしたのである

「朝敵」となった勢力が「朝廷」を倒すという事件は、後鳥羽上皇が島流しとなり「朝廷」の権威は完全に失墜した。
以後、江戸幕府が倒れるまでの間、軍事勢力として実権を握る「幕府」が「朝廷」を掌握して上に立つという時代が続く。
このような日本歴史上での転換期が「承久の乱」だったのである。

このことは、実は愛読書の1冊
読みたいことを、書けばいい。
の中にもこの乱のこと思われる記載が実はある。
何度も何度も「読みたいことを、書けばいい。」を読んでいたので、
承久の乱の出来事をはじめて認識した時に下記の内容を思い出したのである。

以前、わたしは歴史に関する記事を執筆していたとき、不意に「幕府」という単語の意味がわからなくなった。
(中略)
だが、日本には天皇がおり、君主として存在してきた。しかし歴史を学習すると、ある時期から当然のように国権の主体として
「幕府」の存在が語られる。源頼朝が征夷大将軍に任命され政治の中心を移したと簡単に書いてあるが、いったいどのように
国家権力が掌握されてしまったのか。
そんなとき、頭を切り替えようと「外国人に英語で日本の歴史を説明しましょう」という趣旨の本を読んでみると、
「カマクラ・ミタリー・ガバメント」
という記述があり、ハッとして腑に落ちた。要は「軍事政権」なのである。現代の東南アジアや中南米のクーデターを
思い浮かべると本質は近い。旧勢力に対して軍事力による実効支配を打ち立て、それが大政奉還まで700年近く続いたのが、この国の形だったのだ。

(※読みたいことを、書けばいい。 田中奏延 著 P65からP67より引用抜粋)

◆最後の詞での大演説からわかること

私が書いた下記の内容を掘り下げてみたい

動揺をする鎌倉幕府軍の兵を前に北条政子が歴史に残る大演説を行い
鎌倉武士の心を掴み19万という大軍勢を集めて京にのぼり勝利をしたのである。

「朝敵」となった鎌倉に関東の武士達が攻め込んで来るかもしれない
また京都からの「朝廷」に対して幕府軍として軍を纏めてこれに対応をしないと鎌倉幕府は無くなってしまう。

当時の常識で考えてみれば、「朝敵」となるのは圧倒的に状況が悪かったであろう。
しかし、北条政子が歴史に残る大演説を行い鎌倉武士の心を掴み、大軍勢を集めて勝利するのである

その内容は『吾妻鏡』『承久記』に記載があるが、2つの内容は異なっている
総合して内容をまとめて考えてみると下記のような内容だったので無いだろうか。

「みなさん、それぞれ心を1つにして聴いてください。これは私の最後の詞です。
この鎌倉幕府を作った亡き夫の源頼朝は源頼義・義家という源氏栄光の先祖の後を継ぎ
東国武士を育むために、所領を安堵してみなの生活を安らかにして官位を保証しました。
その恩は山よりも高く大海よりも深いものであるはずです。
不忠の臣らの讒言により後鳥羽上皇は天に背き義時追討の宣旨を下しました。
京方としてこの鎌倉を攻めるのか、鎌倉方として京を攻めるのか、
恩に報いるという気持ちがある武士は京に行き藤原秀康・三浦胤義を捕えて
三代の将軍が守ったこの鎌倉を守ろうではありませんか」

本当の演説、そのものの記録は無いが歴史上での事実として
鎌倉軍は19万という大軍勢で京に入り藤原秀康・三浦胤義を捕えて
また後鳥羽上皇も捕えて勝利を掴むのである。

もしも、悪く書かれているイメージの北条政子がこの演説を行ったら
鎌倉の武士達は、心を1つにして戦うことができたであろうか。

私の愛読書の1冊
読みたいことを、書けばいい。
の中にも人生で大切にしている1文がある

何を書いたかよりも誰が書いたか

(※読みたいことを、書けばいい。 田中奏延 著 P108より引用)

これをこのような演説に置き換えてみると

何を言ったかよりも誰が言ったのか

となる。

自分が人生の転換期となり朝敵となり大ピンチを迎えそうな武士の視点や立場で考えればわかる
演説が後世に伝わるような素晴らしい大演説で無いとしても
「今、とてもピンチです。助けてください。」
この一言で心を1つにして戦うか戦わないかは、それを言った人のこれまでの行いで全てが決まると思う。

結果的には書いたように鎌倉の武士達は、心を1つにして戦ったのである

北条政子は「悪女」では決してなく
日本国に生きる41歳の男性として、賢女として認識しておかないと恥ずかしいレベルの
実績や人望がある日本国の歴史の中でも重要な人物の1人だった
のだ。

今回の「北条政子と私」という課題において、
私は本当にほとんど0ベースから北条政子という人物を調べて学ぶことができた。

0ベースだったがゆえに変な凝り固まったイメージも全くなく完全に中立な立場で事実だけを確認することができた。

一番怖いのはイメージだけで語る思い込みである
これをここまで書いた後に、もう一度何も知らなかった時のように
ネット上での内容や動画などでの人物像を調べてみると
『面白おかしくワイドショー』のように「嫉妬深い気性の激しい女性」として描かれている内容が多くあった。
私が調べて出した結論とは大きく違う。

今回の課題で初めて「国立国会図書館」を利用することもできた
「博物館」や「資料館」が大好きな私には大変大きな収穫であった。
これからも何かを調べることを大切に1つの意見、1つの視点だけも物を見るのではなく
多角的に情報を集めて、自分の中で検証を行うということを日常生活の中でも大事にしていきたい。

この気持ちと今回の経験は、私にとっても山よりも高く大海よりも深い貴重な体験だったのである。

※主な参考文献※
『読みたいことを、書けばいい。』田中奏延(ダイヤモンド社 2019年)
『吾妻鏡』正宗敦夫(日本古典全集刊行会 1930年)
『承久記』矢野太郎(国史研究会 1917年)
『愚管抄評釈』中島悦次(国文研究会 1931年)
『愚管抄』岡見正雄、赤松俊秀(岩波書店 1992年)
『北条政子』渡辺保(吉川弘文館 1961年)
『北条政子:尼将軍の時代』野村育世(吉川弘文館 2000年)
『女人政治の中世:北条政子と日野富子』田端泰子(吉川弘文館 2022年)
『史伝北条政子:鎌倉幕府を導いた尼将軍』山本みなみ(NHK出版 2022年)
『眠れないほどおもしろい吾妻鏡』板野博行(三笠書房 2021年)

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