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先生との日々に向き合おうと思う|高垣先生を偲んで -1-

高垣忠一郎先生の訃報を知ったのは1月13日の夕方頃。
2日間の大事な仕事の真っただ中だった。スマホの不吉な通知から目をそらしてやり過ごし、ようやく連絡をくれた知人に返信を打った夜も、その情報をのっぺりと受け取らないと仕事に支障をきたしそうで、平静を装って振る舞っていた。

それから1週間後の21日夜、「高垣合宿」をともにした友人たちと豚骨ラーメンを食べながら、はじめて涙を流した。

社会人3年目の終わり。遮二無二働いてきて、脇においてきたものたちとのバランスを取り直そうとしていたとき。ようやく、ようやく先生にも、会いに行けると思ったのに。学生の頃にはできなかった話をできると思ったのに。
激しい後悔に襲われる。自分の納得などどうでもいいから、会いに行きべきだった。世界は自分の時間の流れでは動いていない。ぼくは先生とともに生きることができていなかった。

先生とはじめてお会いしたのは、2019年5月18日。学生時代入り浸っていた「就活room tugumi」のイベントに登壇されたときだった。何かと耳にすることの多い「自己肯定感」という概念を提唱された方ということしか知らなかずに参加した講演は、心の震える体験だった。

自分が自分であって大丈夫。

高い低いと比較することのできない、高垣先生の仰る自己肯定感を聞いたとき、「あ、大丈夫なんだ」と何かがほどけて、スッと心が軽くなる感じがした。理屈ではなく、大丈夫なんだと。

そこから親交がスタートする。先生のされて「子ども・若者問題研究会」にもお邪魔したりしながら、tugumiの仲間たちとは、先生のご自宅兼書斎におしかけて1泊2日語り尽くす「高垣合宿」を3度ひらいた。

先生は合宿のことをぜひまとめて欲しいと仰っていた。それだけの価値があるものだと思っていたし、やりたいとも思っていた。けれど、大量の文字起こしを編み直し、外に出すことはできなかった。
不義理なことをしたと思う。数年前のぼくは、先生がどうしてまとめることをのぞんでいたのか、老体に鞭を打って講演に出かけていたのかも、深く理解することができていなかった。いまでも、どのくらい理解できているのかはわからない。けれど、きっと書きながら見えてくることもあるだろう。

先生がなくなった1月3日から、もう4ヶ月が経った。今日から少しずつ、先生との日々に向き合おうと思う。

つづく

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