やりたいことが見つからない君へ…一隅を照らすということ
自分がやりたいことは何か?
その解決札が見つからないときがある。
「やりたいことの不明」には2種類のタイプがあって、1つは自分がやりたいことが本当に見つからないタイプ。
そしてもう1つは、やりたいことがたくさんありすぎて絞りきれないタイプだ。
僕は後者だったので、それはもう、大学生のときも、大学を卒業するときにも迷いに迷って大変だった。
大学に最初に入った動機は、高校時代に数学が好きで理系に進みたいと思っていた中で「宇宙」のことを研究してみたいと思ったからだった。
そのようにして物理学科に入ったあとは、はじめこそ「自分はアインシュタインのように科学の大発見をして人類の歴史の新たなる1ページを作るんだ!」と意気揚々と勉学に励んでいたものの、自分は一生(暗くて狭い)研究室にこもる人生でいいのか?もっとほかにやるべきこと、見るべき世界があるのではないか?といぶかるようになった。
そして大学をやめて文学部に入り直した。文学部では、歴史や心理学、文学、哲学、教育などを幅広く学び(そういう趣旨の学部だった)、塾講師のアルバイトなどをしたりして、漠然と「自分の志すべき道は”教育”なのかもしれない」と肌感覚的に思い始めた。
そんな折に東日本大震災が起こり、子ども時代を過ごした東北・宮城の地に舞い戻り、教育の仕事に携わることになった。(そのあとの話は長くなるのでまたいつか…)
そのようなわけで、自分は今、そしてこれからもライフワークとして”教育”をやりたいと思っているのだけど、
思えば、「やりたいこと」というのは、どのタイミングで決まるのだろう?
誰が評価する?
仮に見つかったとして、100%納得できることはあるのか?
もちろん、「自分は天職に出会った!」と思えるような出会いに恵まれた人もいるかもしれない。
でも一方で、天職が見つからない人は、はたして不幸なのだろうか?
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それらの問いに対して、ここに一つの示唆がある。
それは僕が以前、予備校の先生から教えてもらった伝教大師の言葉だ。(※伝教大師は、日本天台宗の開祖。最澄とも。)
一隅を照らす。これすなわち国宝なり。
一隅(いちぐう)とは自分が今いる場所という意味であるから、自分のまわりを照らすことのできる人は素晴らしい宝のような人であるということ。
自分のやりたいことがこの世界に存在するのかどうか、そしてそれを探すということよりも、
自分が今の立場で、まわりの人たちのために一体どんなことができるのか?それを見つけてひたむきに実践していくことの方がむしろ大事なのではないか。
そのように感じずにはいられないメッセージである。
今の自分にとって一隅を照らすとはどんなことなのか、一隅を照らす人になるには具体的にどういう言動がよいのか。
「自分探し」は、ややもすると実体のない”幻想”で
人生という限られた枠組みの中で、自分がどのようなことに時間を使っていくのか
そのちょっとした勇気と決断が求められているのかもしれない。
僕自身はそういうことを考えて、決意して、実践していく人生にしたいと思っているし、自分が関わる子どもたちにはそのような大人になってもらいたいと願っている。