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小説「イヤホン」

 今夜、死のうと思った。32歳、7:00発の満員電車に乗り、上司から怒鳴られ、呆れられ、終電で帰り、家で一人カップ麺を食べる生活に嫌気が差していた。まとめ買いしていたカップ麺が尽きたことを思い出し、帰りにまたまとめ買いしなきゃと思った時、ふと、もう限界だと思った。

 今も会社から帰る終電に揺られている。耳につけているイヤホンの中では甲本ヒロトが何か叫んでいる。パワハラ上司は今日も俺を怒鳴りつけ、無理難題に思えるタスクを押し付けてきた。仕事は終わっていないが、都心に位置する会社からタクシーで帰れるような場所に住めるわけがない。

 電車の窓からはタワーマンションが見える。高層階の方が電気が付いている部屋の数が多かった。全ての部屋を訪ねていって、眩しいから消せと伝えたい気持ちになった。

 まあ俺は今夜死ぬんだ。好きでもない仕事でストレスを溜めるが、たまの休みには活動するような気力も出ない。輪廻転生は信じていないが、来世はタワマンの部屋を照らす電球になりたいなと思う。終電は席が埋まるくらいの乗車率で、酔っ払いが二席分陣取っていた。その手に持っているピーナツを鼻の穴に詰めて殺してやろうか。

 死ぬ前に聴く曲はブルーハーツじゃないな、と思いスマホを開き、一時停止ボタンを押そうとした時だった。見覚えのない黄色いイヤホンとの接続画面が表示され、ちょうど一時停止ボタンのあるであろう場所に『接続』ボタンが現れた。あっと思った時にはすでにそのボタンを押してしまっていた。

 やべ、誰と繋がってるんだ?いや、そんなことより早く接続解除しないと。あたふたしていると、隣に座っていた20歳前後の女性が肩を叩いてきた。こいつもだいぶ酔っ払ってるらしかった。
 「ブルーハーツ。未来は僕らの手の中。」
 ニッコリ笑いながら、俺のスマホから流れている曲を当ててきた。どうやら、この人のイヤホンに繋がってしまっていたらしい。
 「ご、ごめんなさい!すぐ切りますんで……。」
 すぐに一時停止ボタンを押す。接続を手っ取り早く切るにはどうしたら良いんだ?
 「別によかったのに。ブルーハーツ好きだし。」
 「え?あ、はあ……。」
 「いかにも残業終わりの終電で、生きる希望も喜びもありませんって人が聞きそうじゃん。」
 クスッと笑う彼女。ドキッとしたのは、彼女の仕草が思いの外可愛かったからなのか、今の状況を完璧に言い当てられたからなのか。

 突然の出来事の連続で挙動不審になっている俺を見て、彼女はクスクス笑っている。今までの32年間で一番慌てている自信がある。
 「ねえ、なんかおすすめの曲聞かせて。ブルーハーツはいかにもすぎるよ。もっと爽やかな感じの曲がいい。」
 「え、あ、はい、わかりました。」
 「……なんで敬語なの?」
 またクスクス笑う彼女。あ、あはは……と言いながら何を流すべきか頭をフル回転させ、あっぷるぱいの『カルピスソーダの夏』をかけてみた。たまたま見つけて、なんとなくプレイリストに追加していた曲だ。再生ボタンを押すと、クスクス笑っていた彼女の顔がふっと真顔に戻り、またニコニコしだした。選曲は合っていた……のか?
 2,3分たった頃だろうか、彼女がやや興奮気味にこちらを向いてきた。
 「なにこれ、めっちゃ良いじゃん!なんてバンド?」
 「あ、ひらがなであっぷるぱいっていうらしいんですけど、僕も良く知らなくて、なんか解散しちゃってるらしいとか……」
 「へー、そうなんだ!良い曲知ってるじゃん!」
 「あ、ありがとうございます。」
 人に褒めてもらうなんていつぶりだろうか。何故か少し誇らしかった。選曲を褒められたクラブDJもこんな気持ちなのだろうか。
 「なんか、今夜みたいな蒸し暑い日に寝ながら聴くのにちょうど良さそ。そうだ、私のおすすめも聞かせてあげるね!……あ、もう降りなきゃ!」
 ありがとねー、と言いながら電車を降りていく彼女。嵐に巻き込まれたような、狐に摘まれたような、虹の根元を見つけたような、よくわからない感情のままの俺を残し、電車はドアを閉め、また走り出した。残された車内には、今まさに起きていた奇跡を気に留める風の人はいないようで、二席占領している酔っ払いの手から2粒ピーナツが落ちている。

 今夜はこの曲を聴きながら寝てみようかな、と思った。

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