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散歩と雑学と読書ノート



千歳川
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読書ノート


「初めて語られた 科学と生命と言語の秘密」 (2)

  松岡正剛X津田一郎 文芸新書、2023

前回は本書の「あとがき」から読み始めた。それを「まえがき」とさせさせてもらって、第2章の「情報」の起源と「生命」の起源にまつわる対話の部分を紹介した。
今回は第3章「編集という方法」、第4章「生命の物語を科学する」
第5章「脳と情報」へと読み進めたいと考えている。

1 編集という方法(第3章)

第3章では、松岡が自分の専門分野である編集工学や編集の方法について津田に説明する。

松岡は編集(editing)とは、情報が何かの流れに沿って仕事をしていることを観察することから始まるという。その情報とはかなり広範囲のもので、クロード・シャノンの通信理論の情報だけでもなく、負のエントロピーとしての情報だけでもない。芸術や科学が扱う情報も、シンボルも図像も、マンガやポップスも情報です。と松岡は述べている。

以前、松岡は「情報の歴史を読む」(NTT出版、1997)と言う著書の中で、情報とは何かと問い、一般的には「それからメッセージが読みとれるものなら、それはすべて情報だ」としている。そして、ベイトソンの「情報は差異である」という定義をあげ、これは「区別できるものは、なんでも情報だ」という意味だと記していて、以前から極めて広い範囲を情報と言う概念にあてはめている。

松岡の編集工学に関する説明によると、その広い意味合いでの情報が何かの乗り物(メディア、キャリア)に乗って動いていると編集工学では考える。また情報は持ち物を持っていて、その中に内容が入っている。さらに情報は着物(衣装)をまとっているとみなすと述べている。そしてその情報の乗り物や持ち物や着物は時代を追って訂正されたり、変更されたり、破棄されたりしてきたとみるのである。

情報のその外見や様子は観察の器機や道具によって異なるし、観察者によっても異なる、なによりも民族や言語によって異なる、このように情報はその本体とは別の運び手や意匠や比喩がくっついている。この奇妙な付属性をエンジニアリングの対象にすることが、編集工学の目的の一つである。

松岡が「工学」と言う言葉を選んだのは「システム工学」をヒントにしている。また松岡は自分が心酔するホワイトヘッドの影響をうけたウェディントンやベルタランフィの有機体理論や一般システム理論に関心を持ってきたことが影響しているという。

編集工学では、時代の変化に応じて変更されてきた情報に関してそのどれが「真理」で何が「オーソドックス」とかは決めない。これらの情報の変化を、読み直したり、並べ替えたり、組み直すことで編集のし直しをするのである。そこで重視するのは、方法である、文明や文化の進捗のなかでどんな「方法」が有効になっているのか、どんな方法が自律的になっているのかを見極め、その方法に着目し新たな現象や未知の現象にどんなアプローチが可能かを編集工学は見出していく。

「ぼくは世界がどのように制作されてきたのかということを、ずっと考えてきたんですね」と松岡は述べる。「たとえば神話がどんなふうに民族や部族で作られてきたのか、古代言語で主語と述語は何を基本にしてできてきたのか、右辺と左辺を合わせる計算や反復するリズムはどのように発生し、どんな方法でドキュメント化できる(記譜できる)ようになったのか、さらには生と死はどんな掴み方だったのか、哲学はアニミズムやシャーマニズムをどう整理したのかというようなことです」という。私もこの点に関しては松岡と同じく興味を惹かれる。とくに最後の問題にはずっと強い関心を持って私も考えてきた。

松岡はさらに、いろいろ調べているうちに世界制作の方法にはなにか「初期設定」のようなものがあると確信するようになったという。

松岡のあげる「初期設定」の例を一つだけあげておくと、「メソポタミアの「ギルガメッシュ」は今のところ世界最古の叙事詩ですが、そこに拙いながらも物語を構成する基本構造がすでに出ています。ストーリー(筋書き)、シーン(場面、プロット)、キャラクター(主人公、登場人物)、ナレーター(語り部)、ワールドモデル(物語の舞台)の五つです。これはその後さまざまな物語作品に踏襲される」と松岡は述べている。さらに次の章で松岡がふれていることが興味深い。彼が校長をしているイシス編集学校では物語の作成にあたっていくつかの「物語マザー」と名づけたマザータイプを考えているという。そうした何らかの物語の原型が初期設定としてもあったと見なそうと松岡は考えているようだ。

津田は初期設定を「拘束条件」と言ってもよいのかと問題提起する。次の章で津田はとくに生命の進化のさいに「拘束条件」が重要な意味を持つことを明らかにする。松岡はそう言ってもよいかもしれません。としながら情報編集では、その拘束条件を前提にしない方向も想定しているという。編集的には情報の「当初」を「地の情報」に対して「図の情報」がくっついていくというしくみになっていると見なす。「地の情報」は広いユートピックな(グローバルな)もの、「図の情報」は固有のトピック(ローカルな)なもの。これらが組み合わさり、その組み合わせのしくみ自体が編集装置となって、その後のあらゆる表現編集作業のプロトアーキテクチャとして機能しているのだろうと見るんです。編集工学ではそれまで編集されてきた情報群をいったん「地と図」で見直すということをするのです、と松岡は説明している。

次に編集工学では「境界の引き方」や「内と外の仕分け」を編集しなおすという。言語的情報の原始古代的な起原をさぐると、「ここ」(here)と「むこう」(there)というわけ目がとても重視されていることがわかります。なぜそうのように分かれるのか。おそらく情報が「内」と「外」に分かれることに関係があります。それは人間を含めた動物が「内」と「外」のテリトリーを感じながら移動していたころにまで戻って考えると、その仕切りがヒトの脳にマッピングされたのかもしれませんと松岡は言う。さらに「内」である「ここ」に自己が生じてくる、正確には「外」である「むこう」を感じた「ここ」に自己が組織化されると松岡は主張する。そして、編集のふるまいには自己編集性と相互編集性があるが本来は相互的なものですという。

編集行為で最も重視していることは、編集にはアプダクション(パースの言う推論)による編集と、コンテキスト(文脈)による編集と、アナロジカル(類似性)な編集があるということだと松岡は津田に述べている。

以上が松岡の「編集工学」の方法をめぐる説明である。松岡は「津田さんも、方法というものが本質を呼び込むんだという確信があるでしょう?」と質問をする、それを受けて津田は「基本的には、私は物理の教育を受けて数学のほうにいった人間ですけども、物理と数学に共通点があるとすると、それは「見えないものを見ている」ということです」という。
その後二人の対話は数学をめぐる方法論に進む。とくにゼロや虚数や無理数などがどのように見出されたかを含む代数学の基本的な展開を津田は相変わらずクリアに説明していくのだがここでは省略させていただく。

ただし本章の終わりに津田が「運動と知覚」に関連して述べた次の言葉はなかなか示唆的だと私は感じたので引用しておく。

「(運動と知覚の関係は)運動が速ければ違ってくるんじゃないか。大脳そのものを使わない状態を作り出すことで、外界とすばやく対応できる即時適応というものが可能になる。この状態は身体と環境が一体化した状態です。編集的行為がうまくいくときのもそういったエンボディメント(身体化)があるのではないでしょうか。数学も編集も運動を通して世界を内包できる仕組みを持っているのではないかと思える。最近では、森田真生さんもそうした感覚で数学と世界を見ていますね」

本書のような二人の対話(コミュニケーション)は、基本的には相互的な編集作業であり、ここでの二人の脳は言うまでもなく優れた編集装置として作動している。対話はアプダクションやコンテクストやアナロジカルな編集行為を意識的、無意識的にふるに活用してなされているとみてよいだろう。特に本書を読みながら私は対話において、アナロジカルな編集が重要な役割をはたしていることに改めて気がついた。差異で成り立つ情報の対話的な編集にはアナロジカル(類似性)な見方が大切だという事である。私は以前noteに私なりの対話(コミュニケーション)のモデルについて書かせてもらったが、もう一度見直す必要性を本書を読みながら感じている。


2 生命の物語を科学する(第4章)

第4章は二人の共通の関心事である「物語」について話し合われる。
本書での対話は主に松岡が話題を提供し津田の考えを引き出しながら進行する形式をとっている。

松岡は「物語」を話題にしたいときりでして、津田さんは「物語る」という人間の行為の秘密は、脳の中のカオスにあるとおっしゃっている。と津田に質問を投げかける。津田は人間がなぜ「物語る」のかはまだ解明されない問題です。それは心がどうやって生まれるのかという難問ともつながっていますと応じる。

次に松岡は物語をめぐる自説を展開する。文字を持たない長い期間、人類はナラティブな情報に頼ってコミュニケーションや思索や、生活や喜怒哀楽のような感情を守ってきたわけです。その語り部の時代に、起承転結とか分節性とか韻とか脚韻とかの、物語をリピートできる情報維持装置があったようだとわかります。それは今日のわれわれの話でいうと「カルノー・エンジン」「スイッチ素子」「膜」「編集装置」に当たるようなものです。物語とはもともと思索のエンジン機能そのものに潜んでいた構造です。津田はその物語のリピートでちょとまちがえることがあることが大事なんですねと後で述べている。そうしたわずかなまちがい(変異)をもとに新しい意味が生成されていくのだと津田は重要な指摘をしている。

松岡は「物語にまでさかのぼってみると、実は科学になったものと文学になったもの、音楽になったものと絵画になったものの起源はそんなに違わないんじゃないかと思える。そうだとすると科学は科学なりに物語を研究すべきだし、物語そのものの中に逆に取り込まれてしまった文学はそこから一回脱出しなきゃいけないかもしれない」と述べる。

松岡は免疫学者の多田富雄が、「松岡さん免疫系は物語の化学なんですよ」と言ったことばを紹介し、ということで、科学も物語性をどこかに内包しているんじゃないかということです。津田さんは「物語性」に関心をもったのは、何かを解釈することが可能なフォーマットが物語に潜んでいるいるにちがいないという先行的なアイディアがあってこそだったのではないかと思うんですが、どうですかと問う。

松岡の問いかけに、津田は、やっぱり脳の研究を、カオス力学系をベースにしてやったことが物語的なものに関心をもった最大の理由だと思いますと述べ、特にガダマーの「真理と方法」という解釈学の書物に書かれている「先行的把握」という見方に影響を受けたという。松岡は、ガダマーが物語構造のようなものを先行的に理解できることが解釈を可能にしているという仮説を出している。津田さんは「カオス的脳観」のなかでカオスの軌道にも先行的把握が起こっているんではないかと書かれている。と指摘したうえで、
それにしてもカオス論のために「解釈学」を応用するという発想は大胆でした。ぼくは喝采をおくったけれど、科学者がそこに関心をもつということはきわめて異例なことでしょうと松岡は質問する。

津田はデヴィッド・マーがそういう発想(脳の働きの説明に「物語性」を媒介させる)をしていたのではないかと想像したんです。と述べる。

マーは「ビジョン」という視覚計算理論の書物で有名な天才的脳科学者で、惜しくも35歳のときに白血病で夭折した。

津田によるとマーは一ページほどの「ネイチャー」に載せた論文で、「視覚皮質のこの細胞は外界のこういうものを解釈している」というふうに解釈と言う言葉を使用している。マーはさらに1968年に連想記憶が海馬で行われていると予言している。さらに大脳皮質の理論で、データのない時代に、いくつかの命題をのべて、「脳」については物語るしかないというようなことを言っていると津田は言う。

さらに「一方で、松岡さんの本を読むと、先行理解でもって、解釈というものを動かしていくときに、物語ることが駆動力として作動していないとダメだという論旨でしたね」と津田は松岡に問いかける。松岡は当時は幼児に出現する物語回路のこととか、文芸史にひそむ物語マザーのこととか……いろいろ書き散らしていましたと説明する。それを受けて津田はさらに、「私は私で先行理解をドライブしていくものとして、物語の力を借りなければならないという感じがしていた」と述べている。

松岡が幼児に出現する物語回路のことに触れているが、私もその点に関して関心がある。通常幼児は3歳ころに物語を自分で考えだすといわれているが、高名な児童心理学者であるブルーナーがもっと早い時期にナラティブ(物語)の世界に幼児たちが入るのだとして、大人が仕掛ける「いない、いない、ばあ」という非言語的ドラマを幼児は簡単に理解し、喜ぶと述べていたことを私は思い出した。本書でも、「いない、いない、ばあ」に松岡が何度も触れている。それがブルーナーの言うように物語に関連したことであり、また津田が、物理と数学に共通点があるとすると、それは「見えないものを見ている」ということです、と述べていることとも関連していると私は考えて松岡のこだわりに納得している。

ところでここまで読んで、私はもう少し津田のマーに関する脳科学的説明を聞きたいと思った、また脳の中のカオス的遍歴が先行的理解や解釈や物語をどのように作り出しているのかに関する説明を聞きたいとも思った。しかし話題は松岡の、「そこで聞きたいんですが、津田さんは「全知全能の存在」についてどこかで気になっていましたか」という質問をうけて津田の話は脳のことから離れて生命の問題に移っていく。

津田は松岡の「全知全能の存在」に関する質問に対して「どこかで何か思っているところはあったと思いますね。……たぶんそうおもっていたから最初から物理学をやることにしたんです」と述べている。

そこで松岡が、なるほど、神めいたものラプラスのデーモンのようなもの、そういうものを物理学は相手にせざるをえないということ?という問いを発する。
津田は、「そうです。物理学の体系を作っている「X」は必ずあるはずなので、それを神と言うかどうかはべつとして、そういう総体のようなもの、宇宙全体を記述し尽くしてしまうものはどこかにあるかもしれないという感覚はあったと思います」と答える。

松岡はそれに対して、「世界の予定調和」や、「神の全知全能」を考えていたライプニッツですら、「全知全能的なるものが人工システムではありうるかもしれないが、自然界にあるとは確信できなかったようですね」と述べる。

この章で、津田が取り上げた理論には、彼が最も重要視している解析学の一分野である変分理論や物理学の変数がとりうる値の計算を拘束条件を付けたハミルトン力学系で解こうとするディラックの方法論やウィーナーが「サイバネティックス」の中でとりあげていたエルゴート問題などが出てくるが私には充分に理解できていない点が多く、深入りすることにいささか躊躇を感じるが、私の理解した範囲で書き留めておく。

津田はいまあげた数学や物理学の理論を念頭にしながら、世界を語りつくす運動方程式を書けるのかという課題を生命科学にあてはめて議論をしている。津田は生命と言う自己組織化がどのようになされたのかということ、生命の統一原理はあるのかということ、発生分化の過程を図示したウォディントンのエピジェネティック・ランドスケープのこと、あるいは生命進化にかかわる拘束条件をつけた変分法による運動方程式の作成が可能かといったことなどを議論している。

その点をもう少し見ておきたいと思う。

まず津田は解析学の一分野である変分理論に興味を抱いたことを中心に自分の関心のありどころを説明する。変分法というのは運動方程式を導く方法である。変分法を開拓したのはニュートンであるが、それをベルヌーイやオイラーやラグランジュやハミルトンなどが展開していった。ライプニッツも取り組んだ問題である。

変分法による運動方程式で世界を記述すると、一見すべてを書き尽くし、神の視点に立っているいるかと見えるけれど、変分と言うのは、何を変分するのかは実は決まっていない。たとえば最終状態の選び方は任意なのです、最終状態を決めて、そこから初期状態と運動方程式を出すというかたちなのです。変分原理はかたちの上では「神の原理」のように定式化されているんだけれど、実は「破れ目」がやっぱりありますと津田は説明する。つまり「全知全能」とはいかないということである。(この変分法に関してはもう少し詳しい説明がほしいと私は思った。私は不十分な理解しかできていない)

この変分法を手掛かりに生命の問題を考えていくと、「ある最終状態を実現するベストな初期値を見つけて、そこからスタートして生命を作っていくしかないんですね。それこそが「自己組織化」だとおもうんです」と津田は言う。さらに津田は、「なぜ進化が起こるのかというと、やっぱり初期値を選ばなきゃいけないからです。生命過程はカルノー・サイクルから卒業して、非平衡にしてエントロピーを下げるような系を作ったわけです。これはいい初期値を選べれるかどうかの問題です。そこで淘汰圧がはたらいて、いい初期値を選んだやつだけが残った」と説明する。

松岡はさらに議論を広げるためにとして、次のように質問する。「たとえば個体の死とか環境の相互作用とか、こういうものは変分原理からはみ出るものなんですか。あるいは、それも含めて初期値が選べるんですか」

津田はそれに対して、「今まさに(そのことに)トライしているところです。でも従来の変分原理には「環境変化」という項は入らない。だからあらためて、それを入れて、再定式化しようとしています。もちろん、われわれが扱う生命システムには環境との相互作用が前提になります」という。
津田は生命というのは拘束をかけないと情報が生成されないのですとして、環境のような拘束条件を入れた変分法にもとずく生命の方程式を書こうと試みているという。それがもし書けたら「生命の統一原理」みたいなものや
[心の式」のようなものも出てくるだろうとも思いますが、ここからが大変。と津田は説明している。さらに物理の世界で同様の問題に取り組んだ、ディラックはハミルトン力学系を用いる方法を提案している、しかしディラックの提出した方法は際限なく拘束条件を付けなければならないものでしたと津田は述べている。

津田は話を分かりやすくするために、ウォディントンの「エピジェネティック・ランドスケープ」を取り上げる。発生分化の過程で細胞の運命は遺伝子因子と環境因子の相互作用であることを提唱したもので、それをランドスケープ(地形図)で示している。発生は幹細胞から分化していってそれぞれ最終の細胞になっていく。その過程はエピジェネティック(後成的)に決まっていく。発生の初期の状態には戻るプロセスも内包されている、つまり若返りのフィードバックも想定されている。また発生が進行するためには拘束条件が必要である、それは将来こうなってほしいという拘束条件です。しかもそれは「目をつくりなさい」といった具体的なものでなく、「エネルギーを最小にしよう」とか「情報量を最大にしよう」といったやや抽象的なものです、そうした抽象的な条件を入れて、いい力学系、うまい発生が起きそうなものを選ぶと、いい初期値が決まると津田は述べている。さらに自然の中では本当は拘束条件自体も選ばれていますと津田は付け加えている。

津田は「環境変化」という拘束条件を入れて再定式化すると、「生命の統一原理」のようなものが出てくるかもしれないと述べていたが、別なところでは、統一原理のようなものはないと思いますとも述べて考えが揺れているように見える。

松岡は、「編集的世界観から言っても、おそらく生命は統一原理によって進むのではないと思う。もっと「いない、いない、ばあ」的ですよ(笑)」という。

松岡はさらに次のような問題提起をする。「言語論と数学論、実験とディスカッション、西洋の成果と東洋の成果、重力論と量子論など、こういう出来のいいものすべてを組み合わせて単一な原理を出そうとしても、そこから何かが生まれるわけではないということで、なぜそうなのかを本当に説明したいですね。……なぜ統合が阻まれるのか、統一しにくいのか、その理由をうまく説明できない。それでもそこをさらに分け入っていくとすると、津田さんが言うように、さまざまな体系だった理論にはそれぞれ、「時間のたたみこみ」がおこっているからだとも言えるのですが、一方、私たちは「そこ」にさしかかるたびに異なる「偶有性(コンティンジェント)」と出会っているからだともいえます。……津田さんも「心はすべて数学である」で、決定論的でもなく確率論的でもないもの、必然でもなく偶然でもないもの、しかも途方もなく複雑である状態はコンティンジェント(偶有性)と呼ぶしかないというふうに書いていましたね」

それに対して津田は、そう思います。その理由を詰めてみると、私の場合はカオスに引きずられすぎている見方になっているかもしれないけれど、それはやっぱり「エルゴート問題」のような感じがします。川の流れをある一定の場所で見てみたときに、水を構成する水分子がそのつど変化していながら、川のながれとしてはいつも同じように見えるような、ね。

エルゴート問題とは、統計物理学の基礎を形づくる問題で、長い時間尺度で見ると、力学系において各点が位相空間のすべての可能なところを通るという特性を示した理論である。

津田はさらに、中間的なレベルではエルゴート問題は定式化は難しいでしょう。だから大きい系といちばん小さな系だけを問題にしてるんですね。たしかにもっと中間状態で見ることができたら、「統一感はあるけれど、でもちょっと変わっていくような何か」が見えるかもしれませんが、でもそのレベルでエルゴート定理を出すことがなかなかできない。というか、基本的にはできないんです。つまり、そういうおそろしく動的な問題は逆にエルゴ―的ではないのです。カオス遍歴みたいにと津田は述べている。アトラクターとして周期運動のようなものがあると、エルゴート性は破れるのである。

松岡は津田の説明に対して「もっと考えてみます」と返答したが、私も同じ思いである。

3 おわりに

今回は第5章「脳と情報」まで読み進む予定でいたが、字数が多くなってしまったのでここまでにしておきたい。相変わらず引用だらけの読書ノートになってしまいいささか忸怩たる思いが残る。
なお、変分原理に関しては本書の最後の章である11章「神とデーモンと変分論理」でも触れられている。         つづく

追伸


松岡正剛の「数学的」(千夜千冊エディッション、2024年3月)に次のように書かれていた。私は印象的に感じたので書き留めておきたい。

おそらくこのあとの数十年、AI派とカオス派の議論が交わることなく進捗するのではないかと心配されるのだが、もしそうだとしたら、数学と科学と工学はかなり不幸な情況に突入することになるだろう。できれば「カオスで見る数学」が広がってほしい。












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