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散歩と雑学と読書ノート


千歳川
右下に設営されていたインディアン水車が取り外されて
長い冬休みに入った

私の音楽をめぐる体験

私は例年のようにNHKの紅白歌合戦を見て、新年を迎えた。
あらかじめわかっていたのだが、紅白で歌われる歌やその歌い手の半数近くを私はよく知らない。こうして時代遅れになっていくのだと幾分のさみしさも感じるが同時に若い世代はこのような歌が好きなのだと新鮮さも感じた。

私のような年配者ならよく知っているように、昭和の紅白では、その年に流行して国民の幅広い層によく知られた曲が選択されていた。しかしそれはもう昔のことだ。そもそも全国民が知っている歌というもののほうがおかしいのであると「なかにし礼」は「歌謡曲から『昭和』を読む」という本のなかで述べている。

この本に関しては後ほどまたとりあげてみたい。

歌の作り方や受容の仕方が様変わりをしだしてからすでに十分と思える時間が過ぎた。ヒットチャートはレコードやCDの売り上げではなくダウンロードの回数で決まる。それも億の単位になることがあるという。しかもそれはある限られた年代の一部の人たちに受容されているヒット曲である。

もちろん音楽や歌の好き嫌いは人さまざまであってよい。

その時に好まれる歌が分散化し好きが一部の人たちに限定されていってもそれはむしろ社会としては健康なことだと。「なかにし礼」は言う、私もその通りだと思う。

私にも好きな音楽や歌がある。幸い嫌いな音楽や歌はあまりない。嫌いな食べ物がないのと同様である。いや、嫌いなものがないというのはいささか傲慢に聞こえるし、音楽に関しては幸いと言うべきでなく、単に違いがわからないということの証明だと言うべきかもしれない。あるいは音楽的素養やセンスに欠けるところがあるという証明であるかもしれない。

ここではそのてんに関しては棚上げにしておいて、古い話なので躊躇も感じるが、子供の頃に好きになった音楽について触れさせていただきたい。,次に映画を通じて好きになった音楽、そして音楽をめぐる読書ノートの順で私のささやかな音楽の体験について述べさせていただきたいと思う。老人の昔話で申し訳ありません。

1 子どもの頃の音楽体験

私が幼少時から子供の頃によく聞いて好きになった音楽は、戦後間もなくの歌謡曲と童謡である。それから、音楽に分類するべきでないかもしれないが浪曲が好きであった。私は昭和17(1942)年生まれなので、変な言い方だが戦争を知らない子供たちと知っている子供たちのはざまに属している。

私が戦後間もなく流行しだした歌謡曲に接したのは、ラジオのほかに、父の仕事の関係で我が家に寝泊まりしていた数名の若者たちが流す蓄音機やギターの音色を通じてである。当時聞いたいくつかの歌謡曲の中で最もよく耳にした、田端義夫の「帰り船」が今でも私は好きである。たぶん音楽は繰り返し聞いて耳になじむことで好きなものになっていくのだろう。

童謡も戦後まもなくラジオやレコードを通じてよく耳にする音楽であった。
私は小学6年生の時に、どういういきさつでそうなったのかは覚えていないのだが職員室のすみにある放送室で一か月近くの間、昼休みの時間帯に童謡のレコードをかける役割を任された。その際に何か気の利いた言葉を添えたらDJのマネごとができたかもしれないが私にはそのような才覚はなかった。とはいえ、その時の体験が私の童謡好きを決定的にした。

当時は川田正子・孝子・美智子三姉妹、安田祥子・章子(のちの由紀さおり)姉妹、伴久美子、近藤圭子、古賀さと子、小鳩くるみ、松島トモ子など多数の少女が童謡歌手として活躍していた。

私はとくに川田正子(児童合唱団音羽ゆりかご会に所属)が歌う「里の秋」、「みかんの花咲く丘」、NHKラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌である「とんがり帽子」などが好きだった。

童謡は最近あまり歌われなくなっているが、子供向けの歌はNHKの「みんなの歌」をはじめアニメの主題歌など様々な形で活発に作られ歌われている。私は比較的近年のものでは、演歌風童謡ともいわれる北島三郎が歌った「北風小僧の寒太郎」天童よしみ「いなかっぺ大将」が好きである。かりに童謡というジャンルが消えたとしても子供向けの歌がなくなることはない。
井手口彰典著「童謡の百年」という本のなかで述べられているように、いっそうその時の子供に支持されている歌を童謡と呼ぶことも可能だろうか。

次に浪曲に話題を転じたい。浪曲は浪花節ともよばれ、江戸時代に発祥の起源をもつ語り芸の一種である。韻律にのって展開するフシの部分と、人物の会話や状況説明などで展開するタンカの部分からなりたち、語り手の浪曲師と伴奏者の曲師(三味線弾き)によって演じられる。伴奏にはエレキギターが用いられることもあり、録音したオーケストラ―の演奏をもとに歌謡浪曲を得意とする者もいる。最も有名な浪曲師は明治時代の桃中軒雲右衛門義士伝を得意としていた。私は子供の頃ラジオから流れる二代目広沢虎造の次郎長伝をきくのが好きだった。またお祭りに浪曲師が公園で演じるのを聞くのも好きだった。

近年では浪曲を聞く機会はほとんどなくなった。ただ昨年の紅白に出演した三山ひろしや山内惠介三波春夫の歌謡浪曲を、また坂本冬美二葉百合子の歌謡浪曲を歌い継ごうとしている。私はそのことに好感を持っているが、残念ながらどれだけ人気を得ることが出来るかは疑問視せざるを得ない。

私の子どもの頃の音楽体験はこのようなもので、ジャズやクラシックを聞くようになったのは大学に入って友人たちに刺激を受けてからのことである。

私は音楽的な環境の乏しい家庭に育った。しかし、何事も環境のせいだとしてしまうことに私は賛同できない。少し大げさな言い方かもしれないが、私の好きな言葉に、スペインの哲学者オルテガの「私は私と私の環境である」という言葉がある。そのあとに次のように言葉が続いていることを私は重く受け止めたい。「そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない」

2 映画と音楽体験

ラジオやレコードのほかに、映画も音楽と切り離せないメディアである。
私は7歳の時に初めて映画をみた。美空ひばりが主演し歌った「悲しき口笛」である。映画好きの父に連れられて見に行った。当時は映画がほとんど唯一の娯楽であった。美空ひばりの歌は、その後も「東京キッド」「越後獅子の唄」「リンゴ追分」など映画を通じて私の耳に届き歌のうまさにいつも感嘆していた。

美空ひばりの歌で私の好きなものを5曲あげさせてもらうと、「りんご追分」「港町十三番地」「東京キッド」「サーカスの歌」「人生一路」といったところである。最近では「美空ひばりって誰」という若者もいるが、誰であるかを知っている人のなかでは、当然ながら私とは別な曲をあげる方も多いだろう。好き嫌いは人さまざまであってよい。

美空ひばりのことはそのくらいにして、次に1970年から71年にかけて見た、三本のドキュメンタリー映画について書かせていただきたい。ビートルズの「レットイットビー」と「ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間」そしてプレスリーの「エルビス・オンステージ」の三本である。三本とも私は二回ずつ見に(聞きに)いった。

ビートルズの「レットイットビー」は解散間際のドキュメンタリー映画である。正直に言うと私はこの映画を通じて初めてビートルズのファンになった。映画の中で歌われていた曲のなかでは「レットイットビー」「ゲット・バック」が好きだった。

私は数年前に一か月間入院したことがある。その時に最もよく聞いたCDはこ時に作られたビートルズ最後のアルバム「レットイットビー」である。その次によく聞いたのは「懐かしいどうよう」で三番目がジャズであった。ジャズのなかではデイビスやコルトレーンよりはチャーリーパーカーやレイ・チャールズをよく聞いた。クラシックのCDもたくさん持って行ったがその時は聞こうという心境にあまりなれなかった。

「ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間」は、アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した。これは1969年に牧場を借りて行われたウッドストックフェステイバルのドキュメンタリー映画である。このロックを中心としたフェスティバルは60年代のアメリカ・カウンターカルチャーを象徴する歴史的音楽イベントといわれている、30組以上のアーチストが参加していた。当時の私はロックに熱中していたわけでもなかったのに、映画の中の聴衆と同じようにロック歌手のシャウトする歌声に吸い込まれていった。そのことが私には不思議に思えた。たぶんライブ映像であったことが大きいと思う。CDの音源だけならばそうはならなかったかもしれない。さらに私は当時のカウンターカルチャーに関心を強く持っていたこともこの映画に魅せられた一因である。このイベントには三日間で40万人以上が参加した。マリファナが吸われたり、少なくとも二人の出産があったりしたが比較的平和な雰囲気の野外音楽イベントであった。

この映画が上演さされてまもなく札幌のすすきのにウッドストックというバーが出現して、私も飲みに出かけた記憶がある。

三番目のドキュメンタリー、「エルビス・オンステージ」は、エルビスプレスリーが最後の輝きを示したものと私には思われた。プレスリーの歌声は相変わらず見事であった。私は特にサイモン&ガーファンクルの「明日にかける橋」をカバーしたときのプレスリーの歌声が好きだった。

「ビートルズとは何だったのか」という著書のなかで、佐藤良明がプレスリーのロックンロール革命とビートルズに関して次のように述べている。

「(近代)に見捨てられたケルト人たちの古いうたは、アメリカ大陸にわたって、アフリカからきた音楽の切れ端と融合するんです。融合しながらまた分離する。……これは白人向け、これは黒人向けという、しるしが、サウンド的についていくんですね。……前者が後に<カントリー&ウェスタン>、後者が<リズム&ブルース>と呼ばれます。その<C&W>と<R&B>とが、ビル・ヘイリーやプレスリーにおいて、再び合体したとき、市場が世界に広がった。これが<R&R(ロックンロール)>革命だ」

(プレスリーの歌声はイギリスの港町リヴァプールに住み、のちにビートルズを結成する4人の中学生にも届き強い影響を与える)

「1962年、ビートルズは<ラブ・ミー・ドゥー>をレコーディング、、それまで不良っぽい、またはあからさまに性的なイメージに包まれていたロックンロールを、世界中の中高生に受け入れられる、笑顔一杯の音楽にしました」


3 音楽をめぐる読書ノート


私は音楽を聴きながら本を読むのが好きである。音楽に関連した本も好きで、あまりよく知らない音楽家のことが書かれている本でも楽しく読めることがある。たとえば村上春樹の「意味がなければスイングはない」(文春文庫、2014)は私にとってはそんな本だった。本と音楽はとりあえず別物である。しかし、スイングしていない音楽の本を読んでも意味がないだろうと言われたら反論は少々やっかいである。

ここでは、昭和の歌謡曲に関した本を二冊取り上げてみる。昭和の歌謡曲なら私にはなじみが深いしスイングできる曲も多い。

* なかにし礼著「歌謡曲から『昭和』を読む」(NHK出版新書、2011)
 なかにし礼(1938~2020)
は中国黒竜江省牡丹江市の生まれ、立教大学卒。作詞家として「今日でお別れ」「石狩挽歌」「北坂場」「時には娼婦のように」などを作詞。昭和40年代から50年代の歌謡曲全盛時代をフリーの作詞家として駆け抜けたヒットメーカー。同時期に活躍したのがもう一人のヒットメーカー阿久悠である。

 
本書はNHKの教育テレビでなかにし礼が歌謡曲の話をしたものを土台に書かれている。古代からの日本の「うた」の歴史から説き起こして、歌謡曲の軌跡が述べられている。

歌謡曲という言葉自体は、昭和8年(1933)にNHKが使い始めたのが最初である。ちなみにJPOP(ジェイポップ)は1989年(平成元年)ころに東京のFMラジオ局JWAVによって作られた和製英語である。

なかにし礼は、「歌謡曲とは「詩・曲・歌い手」の三つを一セットとし、ヒット(流行)をねらって売り出される商業的楽曲のことである」として「この条件を満たすかぎり、ポップス調でも日本調(演歌)でも、都会調でも民謡風でも、アイドル歌謡でもフォーク系でも、曲種は何でもよい。……そういう多様なジャンルの曲をすべて包含しているのが歌謡曲=流行歌なのである」という。そして「昭和初期に確立されたこの形態は、戦前、戦後を通じてほとんど変わることなく、歌謡曲の終焉までつづくことになる」としている。

歌謡曲の形態はラジオとレコードというメディアが普及しだした昭和の初めに確立し、昭和の終わりとともに終焉したというのがなかにし礼の主張である。

それでは何故歌謡曲が終焉したのか。

そのキーワードは「デジタル」であり、具体的にはCDの爆発的な浸透にある。となかにし礼は言う。CDの制作コストの安さから新しいバンドの自主制作CDが大量に出回り、若者は一人部屋にこもって自分の好きな歌だけを聴くようになり、家族が共通に知っている歌はなくなってしまう。ましては全国のだれもが知っている歌はもはやありえない。全国にヒットすることを目的とした歌謡曲は、その目的そのものが奪われてしまったのである。それがなかにし礼が本書で述べる歌謡曲の終焉の理由である。

なかにし礼は平成元年(1989)に石川さゆりが歌う「風の盆恋歌」をけじめの作品として、作詞家であることをやめた。「風の盆恋歌」は私の好きな曲の一つである。

* 阿久悠著「昭和と歌謡曲と日本人」(河出書房新社、2017)
 阿久悠(1937~2007)
は兵庫県淡路島のうまれ。明治大学を卒業。作詞家として活躍。「また逢う日まで」「北の宿から」「勝手にしやがれ」「UFO」「サウスポー」「宇宙戦艦ヤマト」などを作詞。
私は阿久悠の曲では河島英五が歌った「時代遅れ」が好きである。

本書は時代を見続けた阿久悠が昭和という時代を後世に向けて書き残したエッセイ集である。

阿久悠は本書のなかで「誰が歌謡曲を殺したか」というなかなか刺激的なタイトルのエッセイを書いている。

そのエッセイで阿久悠は歌謡曲を次のように考えるとしている。「流行歌とも演歌とも違うし、Jポップとも違う、ただし、流行歌とも思えるし、演歌とも考えられるし、Jポップ的なところもパーツとしては見つけられる。……おそろしくフトコロの広い、器の大きいものなのだ。要するに、アメリカポップスもロックも音として吞み込み、それに日本の現代を切り取り、日本人の心を躍らせ泣かせる詞を付けた。歌の総合文化であった」

その歌謡曲が1970年代を全盛時代として、なかにし礼の言うように、昭和の終わりには死にかけている。誰が歌謡曲を殺したかと阿久悠は問いかける。その答えは、たぶん人々が、歌を歌いたがるが、歌を聴きたがらなくなったからだと思う。聴いて楽しむ習慣が見事になくなったからだと思うとしたうえで、たまにはプロにしか書けない、プロにしか歌えない歌に驚嘆してみてほしいと述べている。

ここで取り上げた二冊の著書から、昭和歌謡界の後半をけん引した二人の偉大な作詞家が、歌謡曲の終焉に直面して述べた無念な思いが響いてきて私も切ない気分に駆られた。

たしかに歌謡曲は終焉を迎えたと言うべきだろうが、二人の作詞家が残した名曲は消えることはない。

そしてポピュラー音楽はこれからも続いていく。時代の流れの中で変遷しながら途絶えることはないだろう。きたやまおさむ「ビートルズを知らない子どもたちへ」といういろいろと考えさせられる本を書いているが、いまやポピュラー音楽は、ビートルズや美空ひばりを知らない子どもたちのものなのだ。

              ***



2020年  自費出版

「こころの風景、脳の風景―コミュニケーションと認知の精神病理―Ⅰ、Ⅱ」より


今回は、読書ノートに書いた童謡に関連した記事を載せていただくことにしました。前回に書かせていただいた「語用論的視点からみた精神科医的コミュニケーション」のつづきは次回に掲載させていただく予定でいます。よろしくお願い,します。

「童謡はどこへ消えた」 服部公一、平凡社(平凡社新書)、2015
「童謡の近代  メディアの変容と子供文化」、周東美材、岩波書店 
   (岩波現代全書)2015
 

「童謡はどこへ消えた」の作者、服部公一は1933年生まれの著名な作曲家で、詩人の谷川俊太郎と組んで童謡や合唱曲や校歌などを多数作曲している。

服部は本書で、自身の音楽活動を通じて経験した様々なエピソードを盛り込みながら、日本歌曲(ポップス)の出発点といえる童謡の音楽的な意義について論じている。最近は次第に童謡が歌われなくなってきているが、服部は時代の流れとしてそれを許容しながらも、優れた童謡は日本の歌のスタンダードとして、歌い継がれるべきだと言う。その主張に私は共感を覚える。しかし、若い世代にはそれは老人の単なる郷愁か懐古趣味に映るだろうか。ともあれ、本書は確かに詩情豊かな童謡へのオマージュである。末尾に乗せられた、谷川との短い対談も味わい深いものがある。

一方、周東美材は1980年生まれの若手で、著書ではメディアに焦点があてられる。特に1920年代にレコードやラジオといった新しいメディアが登場し、生の声(一次的な声)ではない、複製された二次的な声が人々に受け入れられていく過程で童謡を歌う少女の声が大きな力を発揮したことが述べられる。

この歌う少女とは、「赤い靴」「七つの子」などを作曲した、本居長世の子供たち(三姉妹)のことである。本居長世は、江戸時代の国学者、本居宣長から数えて六代目にあたる名家の出身である。三姉妹は令嬢と呼ばれ、その歌声や容姿によって人々を魅了した。彼女らは現在のアイドルのように全国をツアーし、メディアの世界で活動を展開した。それは近代日本社会において、子供の可愛らしい無垢の身体が文化的現象のなかに前面化していった出発点でもあった。

その後、メディアはテレビやITへと発達していったが、日本のメディア文化(サブカルチャー)は童謡が示した可愛らしさ、幼さ、未熟さといった価値意識を継続していて、現在のアニメソングやAKB48にまで繋がっている。子どもと文化の強固な関係は近代日本文化ならではの特徴であり、「童謡」を含めて他の国には見られない現象である。なぜそうなったのだろうか、また大人の成熟はどこへ消えたのだろうか、子どもが大人にとっての他者であり、大人の世界を攪乱し解体し新たな閃きを与える未知の存在であるからと考えてみても私にはやはりピンとこないものが残る。

ここでは、周東の述べる、唱歌と童謡の始まりに関してすこし触れておきたい。アメリカで音楽を学んできた伊沢修一が1881年(明治14年)に小学唱歌集を発行した。その中には、「蝶々」「蛍の光」「君が代」などがあり、どれも西洋の楽曲に詩をつけたものであった。

唱歌は西洋音楽の受容や教育に一定の役割を果たしていたが、鈴木三重吉らはそうした唱歌を非芸術的と断じて、1918年(大正7年)にもっと芸術的で純真な子ども向けの詩や読み物を創作することを目的に、児童向け雑誌「赤い鳥」を発行した。童謡の歴史はここから始まる。初めは、北原白秋らが童謡の詩を提供し、読者が曲をつけることが推奨されていたが、読者からの強い要望で曲も専門家が作ることとなる。北原白秋、西条八十、野口雨情らが作詞し、山田耕作、成田為三、中山晋平らが作曲をしてたくさんの童謡が送り出された。そして童謡歌手が初めてメディアに登場したのが先に触れた本居三姉妹であった。(2015年12月)



                   
 

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