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散歩と雑学と読書ノート


千歳川と白鳥


コミュニケーションと言語の進化をめぐる読書ノート

進化という視点からコミュニケーションと言語の問題を眺めてみることは、
「ひとのこころ」の意味を探り、「その障がい」を考えるうえで極めて有益で重要な方法である。

今回の読書ノートでは私が「ひとのこころ」の意味を探るために参考になると考えてこれまで読んだ進化に関連した本のなかから、四冊を選んで簡単に触れさせていただきたい。

★  「21世紀に読む『種の起源』」D・Nレズニック,みすず書房、2015
「コミュニケーションの起源を探る」マイケル・トマセロ,勁草書房、2013

何度挑戦してみても最後まで読みきれない本があるものだ。村上春樹は確か「1Q84」の中で、プルーストの「失われた時を求めて」をそんな本の代表として挙げている。「人生はあまりにも短いし、プルーストは長すぎる」と嘆いた作家もいる。私にとってはプルーストもそうだし、マルクスの「資本論」もそうだが、ダーウィンの「種の起源」もそんな本の一つである。

「21世紀に読む『種の起源』」を読んで、ダーウィンの進化論が身近になった気がする。本書は意外と読みづらい「種の起源」の優れた読解本であり、道案内である。本書では、「種の起源」を自然淘汰、種分化、理論と三部に編成しなおして記述してあるため分かりやすさが増している。また
150年以上を経て進化した生命科学の知見を基に解説を加えてあるために我々は広い見通しのもとで、種の起源を考えることができる。ダーウィンの時代には、メンデルの遺伝学の再評価もなされていなかった。そんな中で書かれた「種の起源」はやはり凄い本である。

ダーウィンは「種の起源」の後に、「人間の由来」「人及び動物の表情について」を書いている。私は以前から特に後者に関心を持ってきたが、読めずにいた。でも今なら読める気がする。この本は、比較心理学や近年注目され始めている、進化心理学、進化精神医学の先駆的な本である。

トマセロの「コミュニケーションの起源を探る」はその進化心理学の領域での優れた業績である。

トマセロは本書の第一章で次のように述べている。

「私の進化についての仮説は、人間特有のコミュニケーションの最初の形態は指差しと物まねだったというものである。これら新しいコミュニケーションの形態を可能にした社会的認知的・社会動機的基盤構造が、次いで一種の心理的基盤となり、その上にさまざまな慣習的言語によるコミュニケーション(6000の言語のすべて)を構築することができたのだ。だから、指差しや物まねは、人間のコミュニケーションの進化において重要な移行点であり、後に慣習的言語を作るのに必要な、人間に固有の社会的認知と動機の大部分をすべに具現化している」

トマセロは以上のように、本書の要点を述べたうえで、人間のコミュニケーションの特徴を幾つかあげて論じている。

一つの特徴は、志向的であることと協調的であることである。別の特徴として、人間のコミュニケーションの動機は以下の三点のみであるとトマセロは述べている。すなわち「要求すること」、「知らせること」、「(感情や見方を)共有すること」の三点である。さらに話し手はその動機に基づいて伝達したいという意図(伝達意図)を明示的に聞き手に伝えるようにする、聞き手は話し手の意図をさらに推論の能力を発揮しながら受け止めることでコミュニケーションが成立するという特徴がある。

トマセロがあげたコミュニケーションの特徴のうち協調性と聞き手の推論的能力はグライスが語用論のなかでとりあげていて、ディアドリ・ウイルソンとダン・スペルベルが関連性理論で展開した特徴である。

トマセロはさらに本書で、心の理論、社会脳、語用論などを進化を視野におさめて考察し、特に相手の意図の推論的理解を人間のコミュニケーション能力の中核としている。近年、精神科臨床で話題となる、発達障がいを考えるうえでも示唆的な本である。


★「表象は感染する 文化への自然主義的アプローチ」ダン・スペルベル、
  新曜社、2001

トマセロは指差しと物まねを人間のコミュニケーションの最初の形態としてあげた。指差しという事で、私は自閉スペクトラム症のなかに指差しが困難なタイプのひとがいることを真っ先に思い浮かべた。さらに物まねに関してはミラーニューロンのことがまず思い浮かんだ。同時に人間の物まねないし模倣の能力に関連して書かれている、ダン・スペルベルの本書を思い出した。

スペルベルは表象が個人の脳に生まれたのちにウイルスのように他の人の脳に感染して増殖することがあると述べ、そのことが文化の発展、進化を促すものとして、表象の疫学(epidemiology of representations)を発展させる必要性を論じている。

スペルベルによると、学問的に文化の伝染や疫学を始めて真剣に論じたのは、フランスの社会学者ガブリエル・タルドで、彼は文化ーそればかりか、社会生活一般ーは、模倣(imitation)を通じて個人間で伝達される無数の過程を蓄積した結果として説明されなければならない。と主張している。

さらにスペルベルはリチャード・ドーキンスの、文化が、遺伝子のように複製や淘汰を行う、模倣子(memes ミーム)を単位として作られていて、それらは脳内に保存されさらに他の脳に伝えられる情報としてできているという有名なダーウィン的アプローチを取り上げている。しかしそのモデルは集団遺伝学から借用したもので、心理学(認知のメカニズム)には限られた役割しか与えていないと疑問点を指摘している。

そのうえで、ドーキンスとは少し異なる形で研究されている、最近の心理学的進化に関するダーウィン的展望から認知心理学は利益を得ているとして、本書の文化へのアプローチは疫学的かつ認知的なものだが、疫学的な観点よりも、認知的な観点に立つダーウィン主義と密接に連携していると述べている。

スペルベルの主張は極めて興味深く示唆に富んだものである。

特に精神医学領域での、近年のめまぐるしい疾患の変遷や病態の変化を考察するときに、表象が感染するというスペルベルの主張は有益な手掛かりとなるだろうと私は思う。

詳細に述べることはできないが、まず過去50年ほどの精神の病に関連した変遷を簡単に振り返っておこう。

1970年代は、境界例(のちに境界型人格障がい)が注目された。また外国からの輸入である、摂食障がいやリストカットが流行りだしたのもこのころである。うつ病は大部分がメランコリー型であった。1980年に入ってアメリカの診断基準であるDSMⅢが我が国にも紹介され、精神医学における黒船の到来ともいわれた。それはWHOの診断基準であるICDにも影響を与えていった。現在我が国の診断基準はICD10(まもなく11)によっている。1980年代は解離性障がいが注目された。1990年代はパニック障がいが急増し、トラウマやハラスメントの概念が定着し精神の病に影響を与えていった。2000年前後から、統合失調症が減少し、軽症化しているのではないかと話題になり、代わってアスペルガー障がいなどの自閉スペクトラム症が注目されだして現在にいたっている。またうつ病も病像に変化がみられ現代型うつ病などと呼ばれたりした。しかし、現在はそれも減少しだして、うつ病の多くが双極性障がいのなかに吸収されていっているようである。2000年代はさらに人口の高年齢化にともない認知症が急増している。またネット依存など新たな形での依存症が問題とされている。その他神経症や人格障がいに対する見方にも変化がみられる。

以上極めて大雑把にこの50年ほどの精神の病にかかわる変遷を眺めてみた。それは私が精神科医として実際に体験してきたことでもある。この間は薬物療法を含めて治療上の変遷も著しく、同時に社会や文化の変遷も著しいものがあった。

精神(メンタル)の病は社会や文化の変遷の影響を受けてその病像を変えていくものであろう。もちろんそれですべてが説明できるわけではないが、精神の問題は遺伝子などの生物学的視点のみでは解決できないものでもある。
このてんに関しては、科学哲学者イアン・ハッキングの「何が社会的に構成されるのか」というすぐれた著書がある。

精神の病は表象や観念の変遷や流行と深くかかわるものである。

これはまったく私の個人的な感想だが、これまで一部の精神の病が感染症のように流行しているのではないかと思うことがあった。それを増幅するSNSのようなメディアの影響もみられるように思った。

私は表象や観念が感染するというスペルベルの主張に勇気ずけられてもう少し精神の病の病態の変遷と社会・文化の変遷を関連ずけて考えを推し進めたいと思っているのだがなかなか思うようにいっていない。


「なぜヒトだけが言葉を話せるのか コミュニケーションから探る言語の
 起源と進化」トム・スコット=フィリップス、東京大学出版会、2021

本書でフィリップスは人間のコミュニケーションの進化の上で、意図明示・推論コミュニケーションが生まれたことに言語の起源があると主張している。
つまり言語はチョムスキー派の言うように思考を構造化するために進化したというよりも、言語が出現するためには、先に意図明示・推論コミュニケーションが存在している必要があったというのがフィリップスの主張である。

コミニケションのモデルにはコードモデル意図明示・推論コミュニケーションモデルとがある。

コードモデルは信号と意味の間の連合の集合体(すなわちコード)が広く共有されるものとして発達してきた。一方の意図明示・推論コミュニケーションモデルは人に固有のもので、話し手は伝達したい意図を明示するように試み、さらに聞き手は推論によってそれを解釈するという相補的なプロセスを意味している。そこでは他者の心の状態を推論するという「心の理論」が作動する。これは先に述べたトマセロも重要視していたもので、本来はグライスが取り上げ、スペルベル、ウイルソンが関連性理論で精緻化した語用論的なモデルである。

通常言語学的にはコードモデル(統語論や意味論)の発達の上に言語が生まれ、その言語による伝達が意図明示・推論コミュニケーションモデル(語用論)によって強化されると考えられている。しかし、フィリップスはそれは逆であると主張する。

そのてんを明示する本書の最後の部分を引用しておこう。

あらゆる霊長類のなかで、ヒトだけが大規模で複雑な社会集団で暮らし始めた。そのため、ある種の高度な社会的認知に対する自然選択の作用で、意図明示・推論コミュニケーションが可能になった。そして、それがひとたび進化すると、われわれ祖先たちは、この新しいコミュニケーションの方法を強化するためにさまざまな慣習コードを共有しはじめた。それがやがて固定化し、現在の諸言語ができた。要するに、言語はこうして生じたのであり、あらゆる生物種の中で我々だけが言語を持っているのは、このためである。


               ***



2020年 自費出版

「こころの風景、脳の風景―コミュニケーションと認知の精神病理―Ⅰ、Ⅱ」より


語用論的視点からみた精神病理―予備的試論―(2)


3.関連性理論1986年(ディアドリ・ウイルソン、ダン・スペルベル)

グライスの関係の格率を発展させたのは、ウイルソン、スペルベルによる関連性理論である。
グライスは、それまでの支配的な見解であった「コードモデル」と言われるコミュニケーションのモデルを覆して、話し手の伝達する意味と含意は,聞き手によって推論されるという見解を述べた。ウイルソンとスペルベルはこの見解を基礎において、関連性理論を打ち立て、コミュニケーションの解析を発展させた。

関連性理論では二つの基本的な原則をたてる。一つは認知に関することで、「人間の認知は、関連性が最大になるようにできている(認知的関連性理論)」というもの、もう一つは伝達に関することで、「すべての意図明示的伝達行為は、それ自身の最適の関連性の見込みを伝達する」ということである。

関連性理論から見るコミュニケーションは意図明示的な伝達と推論による認知から成り立っている。話し手が情報を伝達し(情報意図)、それを相手に認識させようとする(伝達意図)。その際に話し手は意図明示的な伝達の仕方を採用し、聞き手は相手の意図をコンテクストとの関連を含めて推論によって解釈する。これは近年話題となる「心の理論」による解釈と言っても良いかもしれない。その際に働く推論や伝達の意図の関連性が最大にあるいは最適になされることが重要である。

付記

私はこの自著の中で、対面コミュニケーションのモデルを下図のように作成して、医師患者間のコミュニケーションを検討してきた。

詳細は別な機会に譲りたいが、私はこのモデルをロマーン・ヤコブソンの伝達行動のモデルをベースに考えた。、

作成に当たって私は、コミュニケーションモデルとして批判的に言われることの多いコードモデルと、意図明示的伝達と推論モデルの両方を取り入れたモデルを考えた。関連性理論でもこの両方が重要であると述べられている。
さらにノンバーバルなコミュニケーションも念頭に作成した。

またコミュニケーションのフレーム(枠組み)としてコンテキストとエントエレインメント(波長合わせ)を位置づけた。フレームは柔軟に伸縮しうるものと考えた。

エントレイメントは話し手と聞き手がコミュニケーションを行い維持しようとする、両者の意思や協力関係に関連している。詳しい説明は省略せざるを得ないが、最近は触れられなくなったプレコックス感という精神医学上の概念が出現した場所であると私はとらえている。

図は不十分であるが、関連性理論を再検討していて、特に「話し手」のところに(意図明示的伝達と推論)を書き入れる必要を強く感じた。




                 
人間の認知は関連性を最大にするように働く(認知的関連性理論)という認識は興味深いものである。なぜならこの認知の誤った作動で妄想が成立してしまうと思われるからである。本来は関連性のない出来事の間に患者は最大の関連性を妄想的に認知してしまうのである。人間として持っている推論的な関連性認知能力が病的に作動してしまうのが妄想であると言えよう。

もちろん、この場合の妄想形成の過程にコミュニケーションが関与しているかどうかに関しては慎重に考える必要がある。かって、精神病理学者の宮本忠雄は「言語なしには妄想は可能ではない」と喝破した。しかし、この際の妄想に関連する言語の役割がコミュニケーション過程にあるのかその他(思考など)のものなのかが問われることになるだろう。私はその両方が関与しているのだろうと考えてみているが、宮本は幻覚(幻聴)には他者志向的もしくは対話的構造が潜勢的に備えられているが、妄想は対話的構造を持たぬまま病者のまわりに漂っていて幻覚よりもより深いレベルでの言語の解体であると述べている。

妄想が対話的な構造を持たないとみるかどうかに関しては私は宮本に賛成できない点もある。ただしいったん妄想が形成されてしまうと、その妄想に関連したコミュニケーションでは、妄想がいわば一つのコード的な存在として影響力を持つこととなる。つまり、妄想を抱く者にとってのコミュニケーションの取り方は妄想コードにそって伝達行為を行うことが最適の関連性を伝達することとなるのである。

従って妄想に関連した事柄をコンテクストと照らし合わせて推論や関連性により柔軟に認知され直されることはなく、すべてその確固とした妄想コードに支配されていわば機械的に認知されてしまうのである。
 
チャールズ・サンダース・パースは、受信者がいれば発信者がいなくてもメッセージが発生するという認識を提示している。このことは、受診者がいればコミュニケーションの過程が成立しうることを示唆しているし、同時に受信者は不在であるはずの発信者を推定しうることを示唆している。妄想や幻覚はいわば発信者が不詳のままに患者に届いた強力なメッセージである。

たとえば、統合失調症で出現する、させられた体験やつつぬけ体験はそうした形の病的なあるいは奇形的なコミュニケーションと見なせるのでなかいかと私は考えている。もちろんそれではコミュニケーションを拡大しすぎになると異論が出されるのは承知の上である。

させられ体験に関してはこの論考(1)のオースティン「言語行為論」のなかで検討しているので、ここではつつぬけ体験に関してみておきたい。

つつぬけ体験という表現は長井真理が命名したものである。シュナイダーが統合失調症の一級症状の中に入れていた、思考伝播、思考奪取、思考察知、思考途絶などを一括して考えがつつぬけになりまわりに知れてしまう体験であるとしてつつぬけ体験と長井が命名した。ただし、この表現は若い精神科医にはもう通用しないかもしれない。一級症状という見方もアメリカの診断基準であるDSM5では消滅して妄想のなかに吸収されてしまった。

つつぬけ体験をもつ患者は、たとえば本来なら全く関係のない人の会話や動作などを見て自分の事を言っている、あるいは自分に対する合図をしていると推論的に認知してしまう、本来は自分に発信されたものではないメッセージを病的に自己のむけられたものと認知してしまうのである。私はそこにパースが示唆している一種のコミュニケーションの発生を見たいと思う。

自分の考えや秘密が関係のない人達にすべてつつぬけになっているという妄想をいだいている患者の伝達行為は先に述べたような妄想コードに乗った柔軟性のないものになっていくのである。

妄想を持つ者のコミュニケーションがコード的なコミュニケーションとなると述べたが、自閉スペクトラム症の一部の人は、「心の理論」がうまく作動できないために、意図明示・推論的コミュニケーションが困難で、言葉の意味を文字通りに正確に使用し、文法的にも厳密な構文を用いるコード的なコミュニケーションを採用する。そのために他者とのコミュニケーションが不自然となり、困難をきたすことがある。このことは、統合失調症の患者の中でもある一時期に見られることがある。

付記
「つつぬけになる」
という表現は「たちぎえになる」というほぼ反対の意味合いを帯びた表現とともに、江戸時代からわが国ではコミュニケーションと関連した用語として使用されてきた。

私は長井真理のいう「つつぬけ体験」と反対に考えや会話がたちぎえになって相手に伝わっていかないという体験を述べる患者に出会い、「たちぎえ体験」と名づけてこの自著の中で検討してみた。詳細は別な機会に触れることが出来たらと考えている。

ここでは一つだけ、何が「つつぬけに」になり、また「たちぎえ」になるのかに関して、関連性理論でいう意図明示的伝達行為での「意図」に関連した事柄がつつぬけになったりたちぎえになったりするのではないかと私は仮定して考えているという事を述べておきたい。

4.ポライトネス理論1978年(ブラウン、レヴィンスン)

語用論的に対人関係を適切に反映した発話か否かを、特に話者と聞き手の心理的距離を中心に考える理論がポライトネス理論である。円滑な人間関係を確立し、維持するための言動をポライトネスと呼び、不適切な時をインポライトネスという。たとえばため口や敬語の使用が不適切な場合などである。
ブラウンとレヴィンスンは社会学者ゴッフマンの理論からフェイス(面子)という概念を取り入れて自分たちのポライトネス理論を形成した。フェイス欲求には相手から自分がどう思われたいかという欲求を示し、次の二種類がある。

1)ポジティブ・フェイス
 他者から称賛されたい、好かれたいという欲求。他者から承認され、望ましいと思う自己像を維持したいという欲求。
2)ネガティブ・フェイス
 他者に関与されたくないという欲求。他者から距離をとりたいという欲求。行動の自由を保つことへの欲求。
フェイスを脅かす行動、FTA(Face Threateinig Act )について
 ①FTAを行わない(コミニケションをとらない)
 ②言うべきことをほめかす
 ③ネガティヴ・ポライトネスな行動(ネガティブ・フェイスをみたすための行動)
 ④ポジティブ・ポライトネスな行動(ポジティブ・フェイスをみたすための言動)
 ➄思ったこと感じたことを率直に言う
 
なお対人関係の物理的距離に関しては、プロクセミックス(E.T.ホール)がある
                   *

● 始めに、コミュニケーションのあり方から対人関係の距離感に関していろいろと考えさせられた患者との面接場面を取り上げてみたい。

患者は男性(51歳)で、緘黙や途絶がみられまた奇異な言動がある
入院患者で初診時のことである

「初めまして、私は寺岡です、具合はどうですか」と質問する。それには何も答えずに笑顔で逆につぎつぎと質問をなげかけてくる。

「先生、ここに来る前はどこの病院にいたの」「大学はどこ」「結婚しているの」「子供は何人」「おとこ?おんな?」私はその質問に戸惑いながらも答えていった。さらに「奥さんはいくつ」という質問があったので、さすがに妻の年齢は、個人情報だからと勘弁してもらい、改めてこちらから質問をするが、全く答えてもらえず、下をみたまま緘黙となり少し前の自然な笑顔とはうってかわって硬い表情となる。その落差はあまりにも唐突で不自然である。
 
この症例では、初めて話す医師のプライバシーに強い関心があり、自分の事は触れてもらいたくないという思いがあったと考えられるが、その旨を伝えることはない。しかも初めての回診というコンテクストを考えると彼の言動は奇妙である。

通常診察を開始するにあたっては医師が話題を提供して会話をリードしていくものであろう、しかし、この患者は自分から次々と質問を発して会話を進めていく。かりにそれで良としても、患者が持ち出した話題は初診時の医師に向けられるものとしてのみならず、初めて話す人間に向けられるものとしても相応しくない。ため口も含めて、医師との関係を考えると、彼の発話は語用論的にはインポライトネスなもの、この場合は、心的な距離が不適格に近すぎる発言とみなされるだろう。あるいは情報のなわばり理論から見るならば、触れてよい内容ではなかったとみなされるだろう。

しかし、この話題を、医師が持ち出したらどうだろうか、初診時であっても、いや初診時ならなおさら、家族歴や生活歴、病歴を尋ねるといった言い方でまとめられるように、初診時の医師が良く持ち出す話題である。私にとっては、医師患者の対人関係がいかに非対称であるかを図らずも、コミック風コントのように思い知らされる会話であった。

患者本人の情報を私が尋ねると、まったく緘黙になってしまい、私にはなぜなのかを知る手がかりも与えられず、初めのなれなれしい態度との落差に困惑するのみであった。私は彼の拒絶の雰囲気に随分ひさしぶりにかって統合失調症の診断の一助にしていたプレコックス感を味わった。私は重いコミュニケーション障がいの持ち主だと直感しながら彼から離れた。

なお、この面接は4人部屋でなされた。はじめ他の患者はニヤニヤしながら聞いていたが、当の患者が緘黙になってしまうと彼らも困惑して硬い雰囲気となり、私は場を緩める配慮をして回診を進めた。

● 次に別な問題で私のいだいているある印象について触れてみたい。診察室で、比較的安定した統合失調症の人と面談していると。彼らはあまり自分からは話をしないで、出来るだけ早く診察を終えたいと考えているように見えることが多い。それでいてある種の安定した穏やかさを感じさせてくれてホットさせられることが多い。ある患者は、変わりありません、眠れていますし、食事もとっています、薬もちゃんと飲んでいます。と言って帰ろうとする。これまでのステレオタイプな診察のパロディみたいだが、こうしたことは彼らの持つ強いネガティブ・フェイス、つまりそっとしておいてほしいという感覚の反映のように思う。だから安定しているならば、相手の中に無理に入り込もうと新しい話題を持ち出すのは避けてあげるほうが良いようだ。医師は相手との心的距離を少し遠めに設定しながらも関係はしっかり築いて継続することを意図した短い言葉を発することが重要である。それは、必ずしも簡単なことではない。

一方で、自閉症スペクトラム症の患者は、しばしば私には、ネガティブ・フェイスではなくポジティブ・フェイスを主張し受け入れてほしいと考えているように見える。診察を早く終えようとすると統合失調症の人とは明らかに異なって不満をもらされることがあるし、ステレオタイプな診察を嫌う傾向がある。訴えの中でも周りの人とうまくいかないことがあった場合に自分の受けとめた辛い感覚や自分の主張を認めてほしいという思いが伝わってくることが多い。辛そうなのだ。

周りのルールやマナーが自分にはしっくり受けとめられない事をどう考えるか医師に回答を求めて来ることもある。医師は答えに窮することが多い。統合失調症の人よりは医師との心的距離は近く医師が役割を果たすよう期待されている。だから医師も辛くなり、ホットできなくなるのである。

ところで、このことが自閉スペクトラム症の病的な状態を示しているということでは必ずしもない、むしろ自然な言動と捉えるべきかもしれない。ここで私が述べたかったことは、この統合失調症の人と自閉スペクトラム症の人が診察室で示す対照的ともとれる言動の在り方に、この二つの疾患の違いを考えるヒントがあるかもしれないという事である。

 
●  対人関係に関連した言動をポライトネスという概念で押さえて考えてみようとしたときに、私が思い浮かべたことの一つに、様々なハラスメントで傷ついて受診した患者の訴えがある。

いわゆるパワハラ、セクハラ、アカハラ等と略語で語られ、近年の対人関係を危機的な状況に追い込んでいるハラスメントのまん延は我々の時代の宿痾のような様相を呈し始めている。子供の虐待から始まって家庭内暴力(DV)、学校でのいじめ、大学のアカハラ、男女差別、職場でのパワハラやセクハラを始めとする対人関係の困難な状況が臨床の現場では時には赤裸々に語られる。

確かにここで言うポライトネスといった語用論的な問題と関連がありそうな事態であるが、もっと別な言葉で語らなければいけないような深刻な問題のようにも私は思う。FTAにしても、FTAを行わないのではなく、シカト(無視)して相手を精神的に追い込んでいくのであり、言いたいことを仄めかしたり、率直に言うといったレベルではなく暴言をはき、脅迫し、時には暴力をも加えて、相手を窮地に追い込み、縛り付けて、相手のフェイスをもぎ取ってしまうのである。どう対応したらよいだろうか、相手との対人関係の距離を保つようにと言ってもほとんどはそのような事では解決できないのが現実である。語用論はこのハラスメントという対人関係やコミニケションの社会病理に関与するには無力に見えてしまうのだが、語用論の内部から新たな提案が可能だろうか。
 
 
5.直示参照とジェスチャー
直示の研究はドイツの心理学者カール・ビューラーから始まっている。直示という言葉は「指し示す」という意味で、それは言葉のみでなくジェスチャーによっても行われる。ジェスチャーのなかには、たとえば、指差しや視線や顔の表情など最も基本的なコミュニケーションの手段がある。

話者が発話するときに、物や人や動物、場所、期間、さらには他の文章などを示す時にどのように符号化しているのか、またその際に参照されるコンテクストの関連などに関する研究がされている。直示語や指標表現は、コンテクストによって変わる表現で次のように定義されている。

「ここ」、「そこ」、「私」、「あなた」、「これ」、「あれ」といった直示語の一部は、発話が行われるときの話し手/聞き手の状況により解釈される。これらのうち「ここ」、「私」、そして場合によっては「あなた」は、直接参照である。状況が与えられれば、それらが参照されるものは暖味ではない。しかし他の直示語の場合は、うなずく、視線を送る、身体の向きを変える、その方向に腕や手を動かすなどのジェスチャーを行う必要がある。そのような周辺言語的ジェスチャーがなければ、この発話は本質的な面では不完全なのである。(「言語論の基礎を理解する」より引用)

またビューラーは直示の種類を分類して、人称直示(私、あなた等)、社会的直示(仲間や他者や社会的に上位の者などの指示語)、時間直示(今、今日、1980年に等)、空間直示(ここ、そこ、東、西、上、下等)を挙げている。
 
なお、神尾昭雄の「情報のなわ張り理論」に私は興味を持っている。話者が述べる文全体やその中の一部の情報が会話の中でどの範囲まで指し示しているのかということに関連した理論である。それは、会話状況のコンテクストの共有とも関連し、また言語情報の話者と聞き手との間での近さにも関連してくる理論である。
 
                 
● 直示やそれに伴うジェスチャーの語用論的問題は、自閉症スペクトラム症のなかで最もよく議論されてきた。視線を合わせたり、指差しをするといった最も基本的な動作(ジェスチャー)の発達に問題があり、人称代名詞の使用にも問題が生じること、また顔の認知という重要な課題の獲得が困難で、自己と他者の表情などの認知がうまくいかないことが指摘されてきた。

● たとえば、村上は「自閉症の現象学」の中で、クレーン現象にふれながら、目が合わない一歳から二歳の自閉症児は欲しい物があるときに、指差しをせずに、他の人の手をつかんで取ろうとする。…これがクレーン現象であると述べている。

またカナーはすでに人称の逆転を指摘している。つまり自分の事を二人称(あなた)で呼び、相手の事を一人称(私)で呼ぶというのである。

私やあなた、ここ、そこ、あそこ等の代名詞の違いは定型発達者ならば自然に身につけてしまうが、自閉スペクトラム症の人は、時には知的なプロセスを経て学習せざるを得ないこともあるようだ。それでも十分に身についたものにならず、私というものあるいは自我といったものがピンとこない状態のままの人もいるようだ。

会話を含めて体験をする際の最も基本的な直示的パターンは、「私、今、ここ」である、自閉スペクトラム症の人ではこのパターンが揺らいでしまうことがあるようだ。つまり、私を起点とする人称や時間や場所の成立が不十分となってしまうのである。他者を前にして私の成立に不全感が生じたり、今の時間が自然に過去や未来へと接続せずに今の連続のように感じたり、自分の体験を物語化することで安定させることにも失敗してしまうといったことがあるように見える。類似した問題は統合失調症の人も抱えている。
 
● 統合失調症の人との会話で、コンテクストが無視されたり、まったく知らない人名が共通の知人のように話されて当惑したり。時間の感覚にも不自然なところがあって、ずいぶん以前の事や、今話題にする必要のない不確かな未来のことも、今現在の事のように話されて混乱させられることがある。
 
● 会話の際のジェスチャーに関して、統合失調症の人との会話で私が困惑した事例を一つ述べておきたい。

急性の幻覚妄想状態にある患者との会話の際に、筆者が話の際に動かす手の運動をみて、患者はいちいちそれはどういう意味ですか、僕になにか合図を送っているんでしょう、といってきかないのである。私にとってこの時のジェスチャーは特別の指示的な意図はなく、なかば癖のような無意識のものであったので、その旨を伝えても患者は許してくれない。しつこく食い下がるので、私はまったくジェスチャーを封印して話をする選択をしたのだが何とも不自由でぎこちない会話にしかならなかった。

● 顔は眼差しや表情の変化により極めて重要なコミュニケーションの手段ともなる。
自閉スペクトラム症の患者のなかには、他者や自己の顔の認知に困難をきたし、そのためにコミュニケーションに障がいをきたす人がいる。

家族を含めて他者の顔を眼差すことをせず、その顔や名前を覚えることが困難で、他者の認知には顔の中の比較的変化しないパーツを手がかりにする人もいるが他者の見分けに困難をきたす。
また本来直接見ることのできない自己の顔の認知も困難で、鏡を通じた自己の顔の認知もうまく受けとめれない人にとっては、自己の顔は存在しないと同じようになり自己性のあり方も不安定となる。

顔は眼差しや情動を映し出す表情の変化によってコミュニケーションを行うことができる。それはバーバルな伝達以上に直接的に伝達する。自閉スペクトラム症ではそうしたコミュニケーションが困難となり、しばしば相手のすばやい表情の変化を読み取ることに失敗する。

5.おわりに

語用論を参照しながら、患者とのコミュニケーションに関して考えてみた。
こうした視点は現在必ずしも強い関心を持たれていないように思うが、私は精神の病の精神病理や治療的アプローチを考えるうえで極めて重要であると考える。
特に私は統合失調症と自閉スペクトラム症の患者が示すコミュニケーションのあり方の差異に関心がある。このてんを語用論が示すコンテクストのとらえ方や推論の能力の問題などを手掛かりに今後なお検討を深めてみたいと思う。
語用論の最も重要な進展は関連性理論に見られると思うが十分に触れることが出来なった。その点も含めて今後に残された課題は多い。

参考文献
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ハリー・スタック・サリヴァン「「精神医学の臨床研究」、みすず書房、
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グンター・ゼンフト「語用論の基礎を理解する」、開拓社、2017
ニコラス・アロット「語用論 キーターム事典」、開拓社、2014
D.スペルベル、D.ウィルソン「関連性理論―伝達と認知―」第2版、
 研究社、1999
ポール・グライス「論理と会話」、勁草書房、1998
神尾昭雄「情報のなわ張り理論」、大修館書店、1990
宮本忠雄「言語と妄想」、平凡社(ライブラリー)、1994
イアン・ハッキング「何が社会的に構成されるのか」岩波書店、2006
 


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