ドンキホーテ_サンチョパンサ

三番町の魔女

「1万5千円だからイチゴさん」そんな通り名を聞いたこともあるが、大体の人は彼女のことを『みどりちゃん』と呼んでいた。もうひとつ、違う呼び名を聞いたこともあるが、それは忘れてしまって、どうしても思い出せない。

 イチゴさんにしたって、みどりちゃんにしたってみんな勝手にそう呼んでいるだけで、彼女がそう呼ばれて、ハイと答えるかというと、ずいぶん怪しい。
 誰も彼女とちゃんとした会話を交わしたことなどなく、名前以外にも、彼女に関するすべての事柄が「どうやら、そうらしい」「誰々がこう言っていた」という都市伝説と同じ曖昧で、出所不明の噂話の域を出ないものだった。
 彼女は一見すると老婆のようにも見えるが、よく見ればまだ存外に若い、40をいくらか過ぎた程度のようにも思える。もし、本人に30代だと言われれば、驚きはするだろうが、まあ信じるだろう。
 いってみれば、年齢不詳、いくつにでも見えるのだが、その、年齢不詳具合が普通の人とは少し違う。普通の人の年齢不詳具合なんてものは、服装や髪型、肌の質感といった、望めば誰でも手に入れられるような表面的なもでしかないが、彼女のそれは、そんな付け焼刃的なものじゃなくて、もっとこう、根本的なもの、有名人でいうとミック・ジャガーや美和明宏に通じるような、誰かに「彼女は700年生きている」なんてくだらない冗談を言われ、しょうがなく適当な愛想笑いを返してあげた後、ふと、心のどこかで“もしかしたら、それぐらい生きててもおかしくないな”と思ってしまうような感じがあった。

 ひとつの季節に、ひとつかふたつしか服装にバリエーションが無く、冬場だけでなく、夏の暑い日にも、胸の前で腕を組み、寒そうに肩をすくめて歩く。平均よりも背が高いせいで、人波の中でも、姿勢が悪く、不恰好な彼女の歩き方は目についた。
 とある地方都市の繁華街にある、ボクが働いていた立ち飲み屋は、1階で大きな通りに面している。窓は大きくガラス張りで、店の中が街灯やネオンに照らされた表の通りよりも暗いせいで、とにかく外がよく見えた。ボクは店の中から嫌でも毎日、客を捕まえようと一晩中街をうろつく彼女の姿を見ていた。
 ほかの客引き――キャバクラやホストクラブ、モグリの売春屋、夜の街角に立つ雑多な面子の誰よりも、彼女は早く街に現れ、そして誰よりも遅く、時に東の空が、完全に明るくなるまで、彼女は到底、その風貌では捕まえられるとは思えない、客を探して徘徊していた。
 まだ、ボクが夜働く前、映画館なんていう健全な場所で、これまた健全な学生連中に混ざり働いていたころ、信号待ちをしているときに彼女に声を掛けられたことがある。
「こんばんは」
 滑舌が悪く、見た目どおり醜い声。そして、それを恥じているかのような小さな声だった。
 ボクが彼女を見たのは、そのときが初めてだったが、温泉街で育ち、実際の人生経験に反して、やたらそういうことには擦れていたボクは、彼女がどういった人かすぐに分かった。
 彼女は道に迷っているわけでもなく、信号が変わるまでのわずかな合い間、人との一期一会の会話を楽しみたい分けでもない。
 ボクが目を伏せて、軽くお辞儀を返すと、彼女はそれで脈なしと察して、またトボトボとどこかへ歩いて行った。
 その後ボクが、映画館を辞め、夜の世界に出入りするようになると、それまでと比べ彼女とすれ違う機会は格段に増えたが、1度も「こんばんは」と声を掛けられることは無かった。
 たった1度のやり取りで、彼女はボクのことを“こいつは脈なし”と覚えたのだろうか? そんなことはないと思う。彼女に何度も声を掛けられて「いいかげん覚えろよ」と文句を言っている人を何人か知っているし、1度声をかけて断られたからといって、2度目も3度目も同じように断られるとは限らない。盛り場に集まる男が、引っかかるか引っかからないかなんて事は、その日の気分やサイフの中身によって結果が変わる。彼女のような立場の人が、1度断られたからといって、同じ人に2度と声を掛けないなんて理由はないと思う。
 これはきっと、水商売を経験したことのある人になら分かってもらえると思うが、夜を仕事場にしている人間と、遊び場にしている人間とでは発する匂いに違いがある。ボクが思うに、彼女は長いことその世界で生きてきたことによって、その匂いを嗅ぎ分ける嗅覚みたいなものが、すぐれていたのだと思う。
 
 その後ボクが、例の立ち飲み屋で働き出すと、場所がら日に何度も彼女が徘徊する姿が見えるからなのか、たまたま、そういった噂話が好きな連中が多かったのか、彼女のことが話題に上がることが多々あった。
 しかし、先に述べたように、そのすべてが出所の分からないものだった。すべてが嘘に思えるし、反面すべてが本当のことのようにも思える。
「姉の命令で16の時から働かされている」「一日のノルマが4万円」「それだと、一回1万5千円なら、計算が合わない」「このまえ、顔にアザを作っていた」「ノルマが達成できないと、姉に殴られるからだ」「泥酔した人間を捕まえて、翌朝目がさめた客が、隣にみどりちゃんが居るのを見て、びっくりして殴ったんだ」「サービスの為にわざと歯を抜いて入れ歯にしている」「それ、誰々の誰々がみどりちゃんにしてもらったらしいけど、すごくいいって言ってたらしいよ」「仕事で初体験を失った」
 誰も彼女から直接、話を聞いたわけじゃない。それどころか彼女と会話すらしたことが無い。
 ある、大学の教員が偉そうに言っていた、「彼女はろくな死に方をしない。いろんな人が色んな病気を持っている。彼女のような人間は、みんなが持っている色んな病気を一身に貰いうけ、体を壊し、惨めな死に方をするだろう」と。
 実際にそうかもしれない。だけど、ボクにはなぜ彼が、彼女に対する同情の余地を一切見せず、そこまで嫌悪した表情でそんなことを語るのか分からなかった。

 ある日、店で泥酔したお客さんが、わけの分からないことを叫びながら、やじろべえの様にゆらゆらとゆれる体のバランスを何とか保ち立っていた。ほかのお客さんはみんな、最初はその男性のことを面白おかしく見ていたが、そのうちに面倒くさくなり、帰らそうとしはじめた。
 そこへ、たまたまみどりちゃんが店の前を通りかかると、酒が入って多少は気の大きくなっていた連中が、彼女を呼びとめ、「お客さんだよ。連れていきな」と泥酔した男性のことを突き出した。
 彼女は、例のか細い声で「酔っ払いはいらない」と言うと、そそくさと去っていった。

 彼女はきっと、ボクの働いている店のことを嫌いだろうな。そう思っていた。前記したように、店の中からは表がよく見えたが、外を通行している人からも、中から人が見ているというのは分かった。
 彼女のように、自分を買ってくれる人を求めて一晩中街を徘徊している人間にとって、その姿をジロジロと見られるというのは気分のいいものではないだろう。
 それに、夏場なんかは店の引き戸を開けっ放しにして、店内と外の境目を曖昧にしていた。そのせいで、これまた前記のように、酔って気持ちの大きくなった客が、からかい半分に彼女に声を掛けることも多々あった。
 なので、深夜に閉店の準備をしているボクに、彼女の方から「大変ですね」と友好的な声で話しかけられたときには少し意外に思った。
 その時ボクは、たちの悪いお客さんを何とか追い返し、ようやく店の掃除に取り掛かったところだったのだ。
 気づかなかったが、どうやらお客さんとのやり取りを見ていた彼女は、「大変ですね」ボクにそう声を掛けてきた。
「お疲れ様です」たしか、そんな風な言葉をボクは彼女に返したと思う。
「このお店って、ワンショットごとにお金を払って、お酒を頂くって感じなの?」
「そうですね、先払いでお金を貰って、チャージとかは無しで……」
「東京とかに良くあるスタイルよね」
 このフレーズは、ボクの印象に強く残った。
 彼女が生まれた時からここに居て、死ぬまで毎日この地方都市の繁華街に立ち続ける。そう想像するのは難しくないが、東京に良くあるスタイルを知っている彼女を想像するのはひどく難しい。
「オーナーが元々、東京に住んでいて――」細かな内容は忘れたが、ボクと彼女は少しばかり世間話を交わした。彼女は長話をするでもなく、そっけない分けでもなく、実に良識的なタイミングで会話を切り上げ去っていった。
 別れ際にボクは、「よかったら、今度飲みに来てください」と声を掛けたが、店の片付けの続きをやりながら、もし彼女が本当に飲みに来たら、“同じグラスを使うことを――もしかしたら店内に居るだけでも、ほかのお客さんが嫌がるだろうな”“店に入れたらオーナーに怒られるかな”などとそんなことを考えた。
 会話をかわして以降、ボクは彼女とすれ違うときに「お疲れさまです」なり「こんばんは」なり、何かしら挨拶をするようにしたが、彼女は口の中でゴニョゴニョと挨拶らしきものを唱えるだけで、いつも空中を見ているような、定まらない視線をこちらに向けることもなく、不恰好な歩き方の歩幅を緩めることもなく、スタスタと行ってしまう。
 その光景は一見、少しばかり頭の足りない彼女は、ボクのことなど覚えていない風に見えるかもしれないが、ボクには“人前で、私なんかに気安く話しかければ、あんたの噂に関わるよ”彼女はそんな風に言っているように思える。

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