あだち充『H2』から思い出した「心からの喜び」とその価値について
もうすぐ冬がくるというのに、夏に読んだ『H2』を思い出し色々と思うことがあったので、今回はそのことについて少し書いてみようと思います。本題に入る前に、今回少し面白かったのが、物語の途中でコメント欄(サンデーうぇぶりは毎話コメントが可能)が一部界隈の人たちにより占拠され強烈に批判されていたことです。これについて一言だけコメントをすると、『H2』の連載期間が1992年~1999年であり、当時においてありふれていた少年少女の恋愛の失敗というのは、今ではもう、たとえその時代を映すものであったとしても通用しなくなってきたのでしょう。全く、「厳しい世の中であるなぁ」と少しばかり嘆いてみたくもなります。
そんなことはさておき、私がなぜ今更『H2』を読み直したのかといえば、『H2』好きなら誰もが知っている、例の木根君のシーンを読むためです。このシーンは、私の中であだち充作品において最も好きなシーンと言っていいかもしれません(王道の『タッチ』も好きなのですが)。今回改めて読んでみてもやはり素晴らしかった。何なら少し泣いてしまった。そして、「なぜこのシーンが好きなのか」改めて振り返ると、色々と見えてきたものがありました。今回はそのことについて少し語ってみようと思います。
始めに断っておくと、例の木根君のシーンは漫画を通読しなければ、その素晴らしさを体感することは難しいでしょう。とはいえ、最近は『H2』を読んだことない人も多いと思いますので、まずは木根君の背景についておさらいしておきます(彼の背景も、例のシーンを語る上では必要不可欠です)。
彼の性格を一言で言えば、お調子者の少し擦れた少年です。悲しいのは、彼は過去に(作中において歴代最高の高校生打者であろう)橘英雄の存在により、あえなく野球を断念せざるを得なくなったこと。このトラウマこそが、野球に対して彼が素直に自分を出せない原因(甲子園での登板も自ら進んでではなかった)でしょう。そんな彼が陰で練習する姿、そして入院した際には病院でのトレーニングで怪我が悪化し退院が延期になり(甲子園をかけた試合に出場できなくなった)、国見たちが見舞いに来た際は気丈にふるまうも、陰では人知れず涙を流すなど、どこか憎めないキャラクターです。また、この場面で木根君の姿に同情するわけでもなく、黙って陰で見守る国見達も大変すばらしい(そして、木根君抜きでも甲子園の出場を果たす)。今回のnoteには関係ないですが、あだち充作品の主人公は人間ができすぎています、本当に。
ちなみに、私などは木根君の病院での悔し涙のシーンでも思わず泣いてしまいました(何なら涙の量でいえば、例のシーンよりこちらの方が多かったかもしれない)。
そして例のシーンですが、これはもちろん(?)甲子園の準々決勝で主人公(国見)を休ませるために登板し、完投勝利した後のガッツポーズのことです。この試合でエースである国見をベンチに降ろし、木根君の殻を破らせる(限界を超えさせる)ために完投させる決断をした監督の粋な采配、準決勝でライバルである橘英雄と対戦する運命を信じる主人公、この両者が木根君にすべてを託すのも彼らの木根君に対する評価の高さがでており、大変すばらしい。そして、試合に勝ったことを、町の喫茶店のブラウン管(ここが大事)越しから、木根君のガッツポーズを描くこのカットは余りにも美しい。本来はこうやって説明するだけ野暮というものなのですが・・・(笑)。
このシーンにおいて、ひとりでいる時でしか素直に自らの感情を出せなかった木根君(病院の屋上シーン)が、かつて祖父と約束した夢の甲子園という場(公共の場)で、屈託のない心からの喜びが全身から滲みでるガッツポーズは、私のような人間には涙なしには観られません(´;ω;`)ウゥゥ。
ところで、なぜこのシーンは読者の心を満たさせるのでしょうか(この318話は最終話の次にアプリでのいいね数が多い)。冷静に考えてみると、何てことないサブキャラ(メインの恋愛組ではない)のガッツポーズな気もします。
もったいぶるのも何なので、ここで私なりの回答を。それは、どこか素直になれない木根君の性格という背景に加え、あだち充作品全体において、その表現がどこか俯瞰したもので徹底されており、こうした俯瞰した描写と無駄のない(最低限)の言葉による作風が生み出すリズム・テンポ(詩的表現)によって、単なる1シーンがとても味わい深いものとして読者にさし迫ってくるからです。無理やり要約してみましたが、これだけではイマイチ中身が伝わらないかもしれません。
では、このシーンに至るまでの漫画のコマ割りをみてみましょう。
最後の打球があがる場面→それを見送る木根君→なんでもない町の描写→ブラウン管越しの木根君のガッツポーズ(上の写真)、この間セリフは一切なくさらっと表現されています(下画像参照)。
さらに詳細に迫ってみましょう。上の画像(P180~181)を見てください。完投直前のフライが上がるシーン。ここでは(ランナーが一塁上におり、ホームランが出れば同点という場面)熱気に満ち溢れている甲子園球場において、全員が固唾を吞みその打球の行方を見守ることを強いられます(沈黙)。そして場面は町中の雑踏に切り替わる(P182)。簡単には読者にその打球の行方(結果)を教えてくれません。そこから徐々に町中の雑踏から喫茶店へと焦点があわされていきます。そして次の頁のブラウン管越しに映った木根君の満面の笑みによるガッツポーズで、読者はついに千川高校が勝ったことを知ること(P182)になります(ゲームセットを宣告する場面すら描かれていないません)。ここで読者は沈黙の世界という静寂から、沈黙を打ち破る木根君の溌溂とした溢れんばかりの喜びの感情を、俯瞰的な視点(ブラウン管越し)によって在り在りと感じることになります。それは、静寂の中でじっと耐え忍んでいた感情(読者)が、溢れんばかりの木根君の喜びにより、その静寂を突き破り、木根君の喜びが私たちの心の中にまで飛び込んでくるかのようです。このダイナミズム(喜び)を読者が感じることができるのは、まさに沈黙と俯瞰的視点、そして詩的なリズム・テンポのなせる技でしょう(ちなみに、この場面が収録されている32巻は木根君のガッツポーズで締めくくられています。なんとも粋なはからい!!)。
それにしても、あだち充さんの徹底した表現技法には感服する他ありません。こうした沈黙と俯瞰描写、作品のリズム・テンポに関して、彼は当代随一のマンガ家であると言っていいでしょう。そこに命をかけて描いていることが、彼の他の作品からも伝わってきます。
そしてこうした俯瞰的な視点(瞑想的視点と言ってもいいでしょう)がもたらす世界の瑞々しさ、豊穣さ、その充溢、これは瞑想界隈でよく言われる「いま、ここ」の気づきから導かれるものと酷似しています。木根君の平時における人目を気にした照れ、それゆえに生まれるふざけた態度は、このガッツポーズの場面において一切見られない。ここでは「いま、ここ」の喜びが身体中からあふれ出ている!!。これこそが、存在神秘(タウマ・ゼイン)であり、彼はその格別の甘美をあじわっている、そういってもいいでしょう。そして、彼が味わう存在神秘の喜びが、私たちの心にも伝播してくるわけです。
というわけで、ついつい熱く語ってしまいましたが、『H2』の木根君の話はここまでになります。こうして振り返ってみても思うのですが、やはり人が心から楽しむ姿(木根君のようなタイプの人間は尚更)というのは、私のMP(メンタル・ポイント)を回復させてくれるものです。深入りはしませんが、上段で述べたような存在神秘など、なかなか狙って味わえるものではありません(興味のある方はぜひこちらの本を読んでみてください)。ただ、存在神秘を呼び覚ます(正確には、もうすでに「ここ」にあるのですが)トリガーになるものは、世に溢れているようにも感じます。それは瞑想であり、芸術(『H2』のような優れた創作物もその一つ)といったものが持つ大きな価値のひとつでしょう。
思えば以前、私がnoteを書いた映画『マネーボール』のnoteも「just enjoy the show(ただ、それ(ショー)を楽しんで)」という「人生を謳歌すること」という力強いメッセージを持った作品でした。これがいかに難しいことであるかは、こちらのnoteに書いた通りですし、簡略していってしまえば、それは存在神秘を味わう難しさにもつながっています。
それはさておき、『マネーボール』で主演されていたブラッド・ピットさんのTiktok動画も、この映画を観た後なら彼の心からの言葉であることがわかり(何よりも、この表情からその真剣さは嫌というほど伝わってくる)、強烈な説得力があります。私などは何度も首を縦に振るばかりです。
動画でブラッド・ピットさんが言っているように、私も「夢中になれる何か」、そしてそれを他人に言えることができない人生がとても長かった気がします。夢中になった事があってもそれを表に出すことを恥ずかしがっていた(もちろん、無理に誰かに言う必要もないとは思います)。そんな過去の自分を木根君の姿に重ねていたのかもしれません。そして、そうした過去の私が、「斜に構えている」と言われてしまうような己を作り上げた要因のひとつでもあったのでしょう。とはいえ、こうした自らの気質に気がつくことができたのも大きな発見ですし、何よりもそんな過去の私だったからこそ見えた風光もある気がします。ただやはり、自分にとって心から意味のあること=「何かに没頭すること(Getting into something)」があれば、それは人生に大きな彩りをもたらしてくれます。そして、何よりもその彩りは周りに伝播する大きな力をもつ。
『リコリス・リコイル』で言えば、錦木千束(ちさと)がもつ「底なしの明るさ」、そして「今この瞬間を最大限に楽しむ」という彼女の生き様が、光を放ち、その光の輝きこそが、井ノ上たきなが持っていた世界観(合理主義)の暗闇を照らし、たきなの人生に彩りを与え、成長させたのと同じことです(これをどうしても言いたかった)。実写版『君の膵臓をたべたい』における山内桜良と志賀春樹(僕)の関係も本質的にはこれと同様であり、今回取り上げた木根君の話で言えば、普段みせることのない彼の素直な喜びの爆発(ガッツポーズ)が、多くの人を魅了した(アプリでいいねが2番目に多い!)ことも、まさに同じことです。
思えば上のようなツイートをした今年の8月、東京の銀座で開催された『リコリス・リコイル』展で出会った古き良きオタクの皆さん(なんというか話し方から服装までこう表現するほかない)が心から楽しむ姿から、元気をもらったこともそうでした。このような体験も、私の作り上げた世界観(世界観などは、自らが勝手に作り上げてしまうものでしょう)を見事に打ち破ってくれるものであり、このような世界を打ち破られる体験(殻が破られると言ってもいい)こそが私の生きる活力(MP回復)となっているのです。そして、こうした体験の積み重ねことによって「自らの世界観を拡張していくことができる」、そう強く思います。
ここまで書いて気づいたのですが、私の言いたいことは、以前X(旧Twitter)でみた美学者の伊藤亜紗さんの次の言葉に近いものでしょう(この投稿を探すのに苦労した)。
芸術作品の感動すべてについて、これが当てはまるわけではないでしょうが、私も自らの輪郭が崩れ零れ落ちていくような感覚、そしてそれを受け入れることによる感動は確かにあります。それは、上で述べた通りです。多くの方も、このような経験をしたことがあるのではないでしょうか。そして、これには独特の心地よさがある。だからこそ涙が思わず溢れ出てくるわけです。
これは、逆の視点から言い換えることもできるでしょう。映画などを視聴した後に、「涙をこらえた/耐えた!」という人がいますが、これは自分の輪郭(私の表現で言えば、殻)を必死に守った結果であり、個人的には、「なんともったいない!」と思ってしまいます。しかしこれには、それ相応の理由もあることもわかります。ひとつ例をあげると、「私たちの多くは、傷つくことを恐れるあまり(社会もそれを後押ししている)、自らを守ることばかりに必死になっている」ということでしょう。このことはSNS(とりわけX)をみれば、多くの方に同意いただけるでしょうし、また、このことにどうしようもない事情があることも多くの方の指摘の通りだと思います。ただ過去の己を振り返ってみても、今の私に言えることは、まずはこの目の前の瞬間を味わうことであり、結局これができなければ、究極的には何をしたとしても「どうせ最後には全て無くなってしまう(※1)」という意味での虚無の相が待っているということです。振り返ると、こうした私の問題意識(当時は全く把握できていなかったが)ゆえに、自らの殻を壊してくれるような体験、そのことがもたらす「開かれた世界」、こうした機会を得られる創作物を幼い頃より好んできた気もします。
また、今回は言及しませんでしたが、この殻を打ち破られた後に(外側の)世界と関わることに"こそ"価値がある、と個人的には思いますが、既にかなりの長文となっているので今回は深入りしません。
※1 厳密に言えば、そもそも「私」が死ぬことは可能なのか、そもそも「私」とはなんであるのか、などといった「哲学的な」話はできるとは思いますが、ここでは「生きているうちに手に入れたものすべては、私の死でご破算になってしまう(そう認識してしまう)感覚」程度の意味で理解していただければと思います。
最後は意図せずなぜか真面目な話になってしまいました(笑)。とにもかくにも、今回は「人が心から楽しんで/喜んでいる姿」から、本当に大きな勇気をもらえる、そんな言ってしまえば当たり前のようなことを、『H2』を
再読し、ついつい誰かに届けたくなってしまったのです。木根君、本当にありがとう(o^―^o)ニコ。あなたのおかげで、今日もわたしは頑張れるぞー!!
P.S)アニメ『H2』OP『Back to the ground』は国見(主人公)がマウンドに返ってきた時のテーマソングだと思いますが、私からすれば、まさに木根君がマウンドに返ってきたときに"こそ"使用されるべき入場曲です。野球に限らず、挫折から立ち上がる際の応援歌としても素晴らしい曲だと思います。興味のある方はぜひ聴いてみてくださいね(o^―^o)ニコ
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