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小さなところにいなくていいように

子どもの頃から、「死」に対する関心はある方だったと思う。

「死」にまつわるもっとも古い記憶は、
幼稚園生だったときに、ピンクのマジックで画用紙いっぱいに「死」という漢字を書きまくったこと(大人になってそのことを母に話したら、先生から連絡ノートか何かで注意喚起されていたことを知った)。

文字を書き連ねていただけで、「死」の概念について掘り下げて考えていた、とかいうわけではないだろうが、子ども心にその恐ろしさ、神秘性、不可逆性、そういった「死」が持っている何かに惹きつけられていたような気がする。

(こう書くと、希死念慮があるだとか、厭世的だとか思われるかもしれないが、私はわりと他責思考で「私の人生がパッとしないのはお前らが悪い!」だなどとイマジナリーエネミーを作っては文句をわめき散らす、歪んだ自己愛を抱えた人間なので、そういった点では安心してください)

頭の片隅でほんのりと「死」について考えていることが珍しくない、といった感じで暮らしていると、死んだ人の話をすることも、ふつうのことだ、という考えになってくる。

実際、私は死んだ父や友人、祖父母、さらには知り合いではない著名人の話だって、日常的にしたいと思っている。

死んだ人の話をするのが好き、という感覚とはまた違って、そういう話は積極的にしていった方がいいと思っている、という言い方が近い。

さっき「不可逆性」と書いたが、実際、いちど死んだらぜったいに元には戻らない。死んだ人との関係性の(再)構築は不可能だし、家族、友人、推し、といった形式の関係性はまるっと「思い出」に集約されて、みるみるうちに極小の点へと変化していく。

死んだ人たちにだって人生はあったのに、思い出としてざっくりくくって、生きている人の記憶の中で縮こめて、肩身の狭い思いをさせていいのだろうか。もっと彼らが懸命に生きていたことを、鮮明に、温度感をもって残しておくべきではないのか。

こう思いつつも、日常会話の中で死んだ人の話をすると、会話のテンポにズレを感じることが多々あるので、私の考え方はあまり一般的ではないのかもしれないと、控えることもそれなりだ。

そんな折、『久保みねヒャダこじらせブロス』の構成などでおなじみの、編集・ライターの前田隆弘さんが『死なれちゃったあとで』(中央公論新社)という書籍を出版したので、3/18の発売日当日に購入し、2時間くらいで読み終えた。

シンプルに文章うますぎる、何だこの筆力は、とおののきつつ、本全体が放つ「死んだ人のことは日常的に思い出していい、いつだって語ってもいい」というメッセージに、安堵した。

「自分が壊れない程度でいいから、責任のごく一部でもいいから、引きずって生きていいんじゃないか」

「あまり責任を感じすぎてしまうと、こっちがまいってしまうので、時々思い出したり、時々忘れたりしながら、生きていく」

これには前田さんの自戒の念も込められていると思うが、死んだ人との関係性って、こうしておく(「保つ」とも「築く」とも違う、うまく言えないから「おく」と仮置きする)ことも必要なんじゃないか。
「死なれちゃった」私たちの狭い記憶の中で小さくしまいこんでおけるような、そんなコンパクトな人生を歩んだ人なんて、一人もいないから。

ちょうど1カ月後の4/18は、祖父と、友人と、推し…とまで言ったらおこがましいが、応援していたナムジャの命日が重なる。

当日はもちろん、その前日も翌日だって、私は彼らに思いを馳せるだろう。
お付き合いいただける方がいれば、ぜんぜん話しますし(すごいしゃべると思う)。


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