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〈キューバ紀行10.5〉我々は、自分を捧げたがっている。

 自分って、なんだろう。
 YO SOY FIDEL.
「私(たち全員)が、フィデル(・カストロ)だ」
 フィデル・カストロの死を悼み、キューバの街中に貼られたポスターの文言である。

 フィデル・カストロの死から、最初に立ち上がったのは学生だった。「(これからは)私がフィデルだ!」と声を上げながら行進し、落胆する民衆を鼓舞した。彼らの姿はキューバ国民の心象に、深く刻まれることになる。
 ついで革命広場の追悼式。どこかの大統領が「フィデルはどこだ?」と聞いた。
 YO SOY FIDEL! YO SOY FIDEL! YO SOY FIDEL!
 集まった市民は口々に「私かがフィデルだ!」と叫んだ。

 いつも陽気で、悲嘆に暮れることをよしとしないキューバ人が、涙を流しながら、「自分がこの国の、この革命の後を引き継ぐ」と想いのままに喉を嗄らせた。
「フィデルはこれまで、自分を守り育ててくれた。これからは自分が身を捧ぐ」
 国民がひとつの原点を共有する。近代史において、これほど劇的な場面を私は知らない。
 戦争に負けて泣いているのではない。国が無くなって悲しんでいるのではない。フィデル・カストロという、巨星の最期を、ひとつの時代の終わりを主観で受けとめたのだ。
 これほど幸福な国民は、歴史上ほかに存在するのだろうか。

 中学時代の英語LLの授業、ラスト5分間は洋画を観る時間だった。あれは名優カーク・ダグラス主演の映画「スパルタカス」。
共和制ローマの剣奴スパルタカスが、剣闘士たちを率いて起こす反乱の物語だ。
 蜂起した剣闘士たちは警備兵たちを討ち、養成所を制圧した。駆けつけた軍隊を破り、海賊の手を借りて海路から脱出をはかる。
 しかし海賊たちはローマ軍に買収され、スパルタカスたちは脱出できず大軍に蹂躙されてしまう。
 ラストシーン、ローマ軍の指揮官が剣闘士たちを跪かせて言う。
「この軍を率いたスパルタカスを差し出せ。そうすれば全員の命を助けてやる」
 スパルタカスが立ち上がろうとしたとき、ある若者が「私がスパルタカスだ」と立ち上がった。続いて老兵が。次に少年が。飯炊きのおばあさんまでが、次々とスパルタカスを名乗って立ち上がる。

 中学生の私は震えた。こんな「生き方」があるのか。「人生とは何か」「何のために生まれたのか」と定番の青臭いテーマに身をよじる年頃。どうすれば自分が人と違う存在になれる(目立って、モテる)かという、性衝動由来の自己顕示欲を充たそうと必死。
 「自分」に夢中の自分が、ちっぽけに思えた。
 自分を追求しているうちは、何者にもなりえない。誰もが必ず、誰かの役に立てる。
 助けを請うことすら、相手の役に立つ。助けても助けられても、嬉しい。我々はそのように出来ている。
 そしてテクノロジーは、その対象との出会いを容易に実現させていく。
 
 「私はフィデルである」と叫んだ人たちの涙。「スパルタカスは私だ」と立ち上がった人たちの血潮。個人的都合を超えた感情の発露。それらに触れると「私」以上の何かに身を捧げたくなる。それが使命の目覚めだ。
 そして「自分は部分なんだ」と腑に落ちる。「部分」の自覚がもたらすビジョンは自己の小ささではなく、自我の無限の広がりだ。
 「自分」が輪郭を溶かし、皮膚を突き破って、もっと大きな単位に広がる。くだらないプライドを捨てて、大きな誇りに躍動する。
 チームプレーの競技をした人には、経験があるかもしれない。みんなで一つのゴールを追いかける一体感とカタルシス。
 それを国家単位で体験したキューバ人に、私は畏敬の念を禁じえない。

 私がキューバを敬愛してやまないのは、あの国が22世紀のライフスタイルを体現する「宗教国家」だからだ。
 キューバに国教は無い。「信教の自由」が守られ、キリスト教、サンテリア、創価学会・・・・・・多くの宗教が混在している。
 私の言う宗教国家は、倫理観(良い心)を基礎として治められている国だ。
 古来、法律と経典は同一だった。ルールは「悪いことをしない」。これだけだ。
 宗教が戒律を作ったのは、悪いことを分かりやすくするため。しかし少しずつ、そして巧妙に、統治の都合や経済上の効率を理由に宗教と法律は分離されていく。

 やがて法律は、単なるルールに堕した。法律の範疇内でしか物事を裁けないから、ルールの揚げ足をとって他者を貶め、己を利する人間が跋扈するようになった。
 細かいルールと罰則に基づかなければ人を信じられない文化圏が広がっていく。経済的な発展には、都合が良かったからだ。
 人をルールとカテゴリーで縛る。都合の悪い人間は排除する。経済は発展し、何かが置き去りにされた。

 キューバ人が助け合うのは、法律で定められているからではない。フィデルが、「良い心とは何か」を教えてきたからだ。
「余っていれば分け合う。余っていなくても、必要としている人には分け与える」
 これをみんなが実践すれば、人は自由になり、社会は明るくなる。それをマジメにやっているのが、キューバ人だ。
 キューバの共産党は、政党ではない。フィデルの教えを信じ、伝えていく市民のグループだ。国民が共産党に入るかは、まったく自由。
 キューバ共産党は、志のある人が拠出した寄附金で、今日も国を良くするために活動している。

 海外と較べ、日本には「宗教は怖い」と思う人が多い。宗教のイメージが、カルト教団だからだ。宗教=洗脳=搾取=奴隷=狂人という連想をするからだ。

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