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【毒親】過干渉でヒステリーな祖母

私が産まれた時、父は前回話したような人間ですので、

とても1人で子育てなどできるはずがなく、すぐに祖母と祖父に育ててもらうよう電話したそうです。

子供が大好きな祖母と祖父はそれはもう嬉々として第2の子育てを始めました。

祖母は当時60才。

まだまだ若いとはいえ、60からまた子育てをするというのは大変なことです。

祖母は本気で子育てをするために、その瞬間からお酒もタバコも辞めたそうです。

そこは素直に尊敬しますし、感謝も(その部分に関しては)しています。

私にとって祖母は母親のような存在です。


怒ったとこなど見たことがないとても優しい祖父は私が6才の時病気で他界しましたが、その時葬儀で皆の前で泣かなかったので、

「あの時涙も流さなかった。お前は冷たい。」

と何十年も言われ続けています。

ちなみに祖父は再婚相手出そうで、父とも血が繋がってないことを遠縁の親戚が話しているのを聞いて知りました。(私には何も教えてくれない家なので)


祖母の性格

・勝手に物事を決める。

・他人への文句が多い。(身内贔屓がひどい)

・外面がいい。

・人生を子育てに全振りしている。

・喜怒哀楽、感情の起伏がクレイジー。


これはこう!というのが人一倍強い人間です。

自分が決めたルールに口答えなど絶対許さないし、自分が正しい、それ以外は正しくないという思い込みが激しい。


なので孫の私になんの相談もなく習い事をさせます。

勝手に習い事ラッシュ


「女の子は字が綺麗じゃないとあかん。明日から近所の先生のとこに行ってきなさい。」

「ソロバン教室の手続きしてきたから明日からね。」

「近所の自治会が子供の英会話教室やってるからあんたも参加にしといた。」

「有名な塾が近所にあるから中学入ったら行かなあかんで。」


私の意志などお構いなしです。

ちなみにうちは父の話の時に書いたように、日中は父が酒に溺れて寝ていたので、家は常に真っ暗で勉強をする習慣がそもそもなかったので、

当然学校の勉強は全くできなかったし、学校でも誰とも打ち解けないしで大嫌いでした。


ソロバンも英会話も習字も大嫌いだったし、塾に至っては塾長が子供に暴力を振るうとんでもないところでした。(詳しくはまた後日)


お金と食事については出し惜しみしない家だったので、私が自分の意志でやりたいと言ったピアノ教室は唯一の楽しみな時間でした。


この頃から音楽は大好きだったんだと思います。


当時まだ保育園に通う年齢だったので、ピアノの先生はドレミの歌にちなんでドーナツやレモンの折り紙をしながらゆっくり学ばせてくれて、その折り紙で作った譜面が宝物のように嬉しく、毎日眺めていたのですが、

祖母はそれを見て、ピアノを習いに行ったのに折り紙させるなんて月謝がもったいない。

と勝手に解約されました。

私の正の感情、意志はそうやって潰されていくのです。


過干渉

基本は父と同じく、「この子は可哀想」という言葉を毎日のように口にします。料理も、家事も、教えてないから何もできない。そう言います。

自分の意思がある人間だとは思ってくれないのです。

これも父と同じ性格で、逆らうと喚き叫び、手がつけられないので基本は逆らわずがいいんです。

高校生になっても、私の靴下もパンツも祖母が履かせるのが毎日の日課でした。

この子は私がいないと何もできない。

嬉しそうに優越感に浸っているのです。

人形のようですが、私は【これがどこの家庭でも当たり前】洗脳を受けていたので、特に気にもしませんでした。今考えると気持ち悪いです。


おばあちゃんを大事にしないとあかんよ

祖母は外面が非常に良いし、世間的に見たらお婆さんが孫を育てている、なんてとても微笑ましいじゃないですか。

内情を知らない他人からしたら。

私の辛いサインなど、周りの大人は誰1人として気づいてはくれず、

「あんないいおばあちゃんがいてよかったね、大切にしないとあかんよ。」

と息を吐くように言います。その言葉はとても心に重くのしかかりますし、そんな上っ面しか見てくれない大人達が大嫌いでした。


発言権・選択権が全くない

特に嫌だったのが病院で、どこか悪いとすぐ病院に連れて行かれるのだけど、高校生になっても小児科に通わされ、絶対診察室には祖母が同行。

医者が私に

「今日はどうされましたか?」

と聞くと、全て祖母が話します。

「昨日の夜から熱があって、一応家にある薬を飲んだんですけど…etc」

私は一言も話しません。たまに行く病院などでは

「あなたに聞いてるんですよ!しっかりしてください!」

と私が怒られるのです。

美容院も祖母が行ってるパーマ屋さんで切ってもらっていたのですが、

オーダーは全て祖母です。

私はロングヘアーが大好きで、とても気に入っていたのですが、小学校2年生の時、いきなり祖母が美容院で、

「この子はショートが似合うからばっさり切ってください。」

とオーダーしたのです。

私は嫌だとも言えず、カットされて落ちていく自分の髪を見ては悲しくなり、終わるまでずっとボロボロ泣いていました。

祖母は大満足でした。

そうして、私は無事ナスビのヘタみたいなダサいベリーショートにされ、その時の写真は今でも見たくないくらい嫌いです。


大体この辺の年齢から、写ってる写真からは笑顔が消えています。


友達を責める

まず家から外の世界に出ることを許さない親なので、友達と積極的に遊ぶことを嫌います。

公園で遊んでると、

「〇〇ちゃん、もう帰り。」

「うちの子はもうご飯の時間やから。」

と友達を追い返します。

勿論友達を家にあげることは禁止だったし、遊びに行くことも禁止です。

そもそもタンクトップで刺青丸出しで寝ているアル中の父がいるので、うちに呼びたいと思ったことは1度もないんですが。

子供の頃クラスの女の子達はお泊まり会がブームで、

私も(そんなに親しくない)友人によく誘われました。

そういう遊びって子供ながらにワクワクします。

でも親は断固拒否。友達の親が代わりに説得してくれても断固拒否。


「よそのおうちにご迷惑がかかる。」


とのこと。あまりしつこく言うと、

「もうあの子と遊ばんとき。あの子のせいでアンタがおかしくなった。」

とうるさく、自分を責めるならまだしも、よく知りもしない私の友達を悪く言われるのは本当にストレスでした。

なので、家で友人の話とか今日あった出来事などは話さなくなりました。

ちなみにこれは社会人になっても、会社に対して同じようなことを言っています。


そんなこんなで高校の修学旅行や、友人同士の卒業旅行も行っていません。


小学生の頃から介護要因

まだ小学校低学年の頃から、

父は「お父ちゃんが死んだらおばあちゃんのこと頼むで。お前しかおらんねんから。じゃないとなんのために育てたかわからへん。」

祖母は「おばあちゃんが死んだら、お父さんを頼むで。お前しかおらんねんから。じゃないとなんのために育てたかわからへん。」

どちらかがいない時、必ずこれを言います。


わかったと私が言うまでやめてくれません。

たまに小学校高学年の従姉妹のお姉ちゃんが遊びにきてくれていたのですが、その姉にも祖母は、

「もしおばあちゃんが死んだら、ざきのこと頼むで。あんたしか親戚おらんねんから。」

と言っていましたが、大人からそんな話をされたことがなかった姉はショックで、とても嫌だったと大人になってから聞きました。


祖母は昭和の人間なので、父は尊敬しないといけないものだ。というのがあり、私も同じように叩き込まれました。流石に洗脳された私の頭でも、あの父に尊敬の念は抱けない。

無理があるだろと思ってました。


しかし祖母は絶対的に父の味方なので、

父が逮捕されようが、懲役に行こうが、

「お父さんは別に何も悪いことしてない。人を殺したわけでもないし。」


善悪のボーダーラインぶっ壊れすぎやろ。


就職してからは給料全額渡す

欲しいものがある時はお小遣い制。それがどこの家庭でも当たり前。

確かに実家住まいで仕事をしていたら、家にお金をいれるのはいいことだとしても、自分が管理させてもらえないのはなんなのか。

もう二十歳も過ぎてしばらくして、それを反論したら

「誰かに入れ知恵されたんか!」

と手がつけられない始末。

私が大金を持つのはまだ子供なのに危ない。という思想なのです。

こんな状態の家なので、二十歳を過ぎても実家を出ることは許されずだったのですが、大きくなるにつれ、彼氏が出来たり、一人暮らしをしたかったり。

生きていれば当たり前の欲(?)が出てきて、

家を出る時は大騒動でした。(そちらの話も後日)


今は父が懲役に言ってる隙に、ホームヘルパーの会社に拒否された(相当嫌がらせしたんだと思う)祖母を施設に入れ、当初は大ごとの連発だったのですが、

次第に落ち着いて、半分ボケがきて、1人とても幸せそうにしています。

この祖母を見てると、私の人生なんなんだって思います。

おそらく私のしんどい気持ちは、父と祖母が死ぬまで終わりません。


長々と失礼しました。



自分には何ができるのか、色々な仕事に就きましたが、いずれは執筆だけで生きていこうと思っているしがないライターです。