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茫漠(その2)/清水改升


 『あの日』をふとした時に思い出すたび、ほとほと自分という人格に愛想が尽きる。元々とくべつ愛着を持っていたわけでもないが、かと言って蔑ろにもしていなかった。ただそこにあるモノ、程度の認知でいた。リード越しに前を歩く、犬の尻尾を眺めているような感覚に似ている。しかし、それがいけなかった。もっと注意深く観察し、絶えず注視しなければならぬのだと痛感した。尻尾の揺れは見ていたのに、そこに毛が生えている事実は見えてはいなかった。何がイケなかったのかは明白で、自分のモットーである『テキトー』を疎かにしたことに他ならない。
 
 モットーにするという事は、即ち自分にはその才能や資質が薄いわけで、足りない部分を後天的に補うため意識付けようとする行為だと思う。僕の本質(人格)は『テキトー』とは遠いところにあり、気にしいで、不必要な几帳面で、ムキになりやすい。だからたくさんの"恥"をかき、その都度後悔して顔を伏せては変わろうと思うのだが、人間そうは都合よくはできておらず、忘れた頃にまた同じように"恥"をかき、後悔を繰り返す。
 けれど今まで幸か不幸か、そのことを長い間引きずった事はなかった。数日経てばだんだんと後悔が薄まっていくのが常であった。(だから何度も同じ失敗をするのだろう)しかし『あの日』だけは特別だった。家を出たあと、鍵の施錠を不安に思うほどの頻度で後悔が押し寄せる。キッカケが無いほど気持ちは沈み、目線は地面の虜になる。「どうしてあんな事を...」そんな言葉を絶えず脳内で繰り返して記憶は当時へ逆行し、こう言えばよかった、もっとこうだったと、取り返せない過去をあてもなく無心してしまうのだ。そして、性懲りなく同じ"恥"にまみれる。
 
 モットーとは、キズパワーパッドだ。「新しい体を手にする」というよりも、体はそのままで今まで負った傷を隠し、治療するようなものだ。貼ってしまえば傷は隠れ見ずに済む。そしてあわよくば治してしまおうという、後付けの応急処置なモノだろう。だから一度貼ってしまえば後は放おっておけばいいのだ。そうすれば勝手に治ってくれるハズだった。が、どうやらそういう訳でもなく、治癒は体に負担がかかるらしく、一度貼ったキズパワーパッドの周りは体内から押し出された水分で、見るも無惨に腐敗していた。
 それに気づいていたはずなのに、僕はよそ見し知らん顔をしていたのだ。炎症が起き痒みに耐えられなくなっていても、モットーをめくって確認することも、新しく貼り替えることもしなかった。そしてとうとう『あの日』という大きく深い傷を負ってしまった。十分に回避できるだけの期間も体験もしていたのに、直視することを怠けた結果が束になって襲ってきた。自分のズボラさをこの時ほど恨んだことはない。傷は今も熟れている。

 『あの日』は僕に大ダメージを与えたが、同時に”モットーの下を疎かにする事なかれ”という教えも示してくれた様に思う。この作品を描く時、そうっとモットーをめくって『あの日』の具合や程度を確認する。やはり直接覗くと痛みが思い出されるが、それでも直視する以外の慰める方法はないだろう。おそらく文学とは、いや、自分にできる文学とはそういうものなのかも知れない。傷は自分だけの唯一のモノであり、また個体全体の一部なのでは考える。傷を見つめるとは自分を見つめると同義であり、そこにあった痛みや流れた血は事実だからだ。
 そんな唯一の深さや大きさを、温かさや冷たさを、モットーで覆った下の生傷を描けたら。めくりすぎて傷跡が残ったとしても、それ自体も本物であり、跡を見続けることも文学には必要なのではないかと思うのだ。少なくとも自分はそうにしか描けないのだな、と思っている。

                              清水改升



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