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国を護る覚悟はあるか

26歳のときに、陸上自衛隊に入隊した。
入隊に至った主な動機は、以下の2点である。

日本の国防に単純に興味があったから。
人生で一度は軍隊に入るべきだと思っていたから。

そのほかにも色々あった。
軍隊の知識が身につくだけでなく、
小銃も撃てるし、体も鍛えられる。
おまけに、衣食住はタダだし、お金も貯まる。

でも本当に身についたのは、そういうものではなかった。

自衛隊という組織は、いい面もあれば、よくない面も多々ある。
思うところは、みんなそれぞれあるだろう。

そんな中で私が見つけた真実を話そうと思う。

入隊の日

不安はなかったのか? という疑問に対しては、なかった である。
唯一あげるとすれば、入隊ギリギリの年齢だけだ。(当時は 27 まで)

私は北部方面(北海道の方面のこと)だった。
帯広という北海道の中央らへんの場所から、教育隊のある札幌の真駒内駐屯地までの道のりがやたら長いなぁなんて道中は思っていた。
駐屯地に着くと、物々しい雰囲気や風景になってくるので、緊張してきたのを覚えている。

初日に一番覚えていることは、班の中に岩手出身のやつがいたのだが、
そいつは丸坊主にするのが大変嫌だったらしく、刈り終えて役目を終えたその頭髪をビニール袋に入れて大事に保管していたことだ。

いろんなやつがいた。
出身地も様々。
もちろん方言も違う。

何一つ共通するものなんてない。
そんな 1個区隊 37 人の人間が、何から何まで同じことをする。
全動作に一分の狂いも許されず、統制された生活を 約 3 ヶ月間行うのだ。

「うわぁ... 自分だったら絶対無理だろうなぁ。」と思ったそこのあなた。
無理ではなく やる のです...。
そして不思議なことに多くの人はやれてしまうんです。

地獄の教育隊

もうこれは、あるあるすぎて書く必要がないんじゃないか ? って思う。
自衛隊の教育に関する記事は Web 上でいくらでも手に入るからだ。

でも書く。 

どの自衛官に聞いたって、俺の教育隊はキツかったと言うだろう。
自分の教育が一番キツかったと全隊員が思っている。
(空挺教育とかそういう特殊なやつは抜きね。)

もれなく私もその一員である。

いやもうこれが本当にキツかったんだ。
隣の区隊が、どれだけ青く見えたことか。
それくらい自分のところの班長陣は All Star みたいな連中だった。

さて、ここで皆さんに質問したい。
について考えたことはあるだろうか?

今日1日がどれだけ尊いものだったか...
と感じたことはあるだろうか?

私はある。

前期教育の 90 日は毎日感じていた。
(ちょっと盛りました。 75 日ほどです。)

命の輝きを感じない日はなかった。
課業が終わって教育隊舎 でようやく購入できるようになった 90 円の pepsi コーラがこの世のものとは思えないくらい美味しく感じた。
毎日 就寝 ラッパを聞いて眠りにつくときは
「今日は生き残れた。明日はどうかなぁ...。」
と思っているうちに意識がなくなる。
朝は起床ラッパで起こされるわけではない。
もう心が、脳が、身体が、戦闘体勢に入っているのだ。
ラッパが鳴る6時のちょうど1分前に完全に目醒める。
ラッパを聞くまでもない。
ラッパで起こされるやつは 3 流ですらない。

毎日、死ぬほど罵声をあび、人格を悉く否定される。
肉体の限界まで体力錬成し、恐ろしく眠くなる座学は一睡も許されない。

教官たちはそのほとんどが、なぜか Ranger 経験者だったので
人間の極限状態と言うものを非常によく心得ていた。
だから、苦しい顔 の真贋をいとも簡単に看破してくる。
限界まで、追い込んでくるのだ。
(振り返ってみると、彼らは自衛官として相当優秀だった。)

自衛隊に入隊したとき

自分はまあまあやれるんじゃないか?

と呑気なことを考えていた。
理由は
腐っても国立大学を卒業したし
大学院の試験も通過している。
年齢が 26 とはいえ
体力は標準くらいはあるだろう。
要領もそこそこよいと思っていたし
なんでもある程度できる。

信じて疑わなかったからだ

ところが入隊して気付いたことは

頭の回転が人よりも速いわけではない。
物覚えがとりわけ良いわけでもない。
体力は標準的で、突出したものがなく、
怪我をしにくいわけでもない。
射撃のセンスが突出しているわけでもない。
集団を指揮する能力が高いわけでもない。
そして、器用さに至っては壊滅的だった。

この組織に入って、自分の限界を知った

そして、自分の能力の上限値を知ったとき
自分の知らない物語が始まった。

最も長い 1 日

生涯忘れない 1 日がある。
あの日以上にきつい 1 日はそれまでの人生では経験したことがなかった。
(自衛官になったらそこそこあるんだけど...)

前期教育の目玉は、戦闘訓練である。

きつい 
いたい 
ドロドロになる 

戦闘訓練はだいたいこんな感じ。
その日は朝から戦闘訓練をするために
いつもよりかなり早い集合だった。
山に着くなり、砂利の上を無限に匍匐前進させられる。
(余談であるが、私は中性脂肪が少ないので、ごろごろ石が転がっている砂利の上で匍匐前進すると、全身内出血だらけになる。でも格闘経験者の同期は全然大丈夫で、匍匐も信じられないくらい速かった。)

全身負傷したのちに、一番嫌いなハイポートがやってきた
この日のハイポートが
ほんっっっっっっっっっっとうに終わらない。
数ある前期教育の訓練の中で、断トツできつかったのは間違いない。
永遠を感じた。
なんで私の体はまだ走っているのだろうか。
同期のやつ転けて怪我して走るの免除されてるぞ...
だんだん思考ができなくなり、頭の中が空白で埋まる。
出せない声を無理に出してひたすら走った。
後でわかったことだが、演習場(山)を 約 3 時間走っていたらしい。

完走して水を飲んだ。
水道水がこんなにうまいと思ったのは後にも先にもこの時だけだ。
その後も勿論訓練は続き...
いつものように罵倒され、気がついたら駐屯地に帰隊していた。

早く風呂に入りたい...。
ドロドロだから靴磨きに時間取られる...。
銃整備もあるのに...。

そう思いながら
「早く終礼してくれ!」
と心の中で叫んでいた。
ところが終わらないのである
とっくに 17 : 00 は過ぎているのである!
(課業は17時まで)

その後、我々の区隊は
課業が終わっているにも関わらず
10km の体力走 をヘトヘトの状態で行った。
無論、走れる体力なんて残っていない。
でも走るのである。
身体がもう自分のものではなかった。
私が一番知っているはずの『私』という乗り物が、まるで赤の他人のモノだった。
隣の区隊は夕食や風呂を終えて、談笑しながら銃を整備していた。
目に映るその光景は何よりも眩しかった。
なぜ私はこの区隊に配属されたんだろうと。
自分の知らない身体に揺られながらそんなことを思っていた。

10 km走り終え、集合した。
教官が
「今日キツかっただろ?」
と言った。
「...(当然だろ、このやろう !!!)」
とみんな内心絶対に思ったはずだ。
しかし教官は続けて
「知ってんだよ。キツいってことは。
 
今日の内容は本当にキツいことなんだよ。
 当然だろ。
 他のどの区隊よりもキツくしてるからな。
 その上、10 km も走らせた。
 隣の区隊の奴ら見て羨ましいと思ったか?
 飯も食って風呂も入って
 おまけに明日に備えて銃まで整備してる。
 でもな、お前たちは今日という日を
 乗り越えたんだよ。

 他の誰でもなく、お前たち自身が。
 自信を持っていいぞ。
 こんなに辛い日はそうそう訪れない。
 そして自衛官になる上では、大切な1日だったんだ。
 よく頑張ったな。

前期教育で褒められることなんて殆どない。
だからこそ、教官のこの言葉は今でも心の奥深くに残っている。

前期教育の意味

教育隊の天王山は
おそらく 2 ヶ月目くらいだと思う。
そこら辺が最も厳しくしごかれる。
同期もみんな疲弊してきて、精神的にも体力的にも余裕がなくなってくる時期に差し掛かる。

自衛官候補生に求められるのは

頭の良さでも
突出した体力でも
器用さでもない。

その戦闘隊が
どんなに絶望的な状況でも
どんなに理不尽な命令を下されても

その状況を自分達の力で打破する作戦を考え
可能なリソースを的確に配置し
全員が目標達成のために死力を尽くし
任務を全うする。

そういうことが求められる。

「自分は他人よりもできるからええねん。」

そんな人間はお呼びではない。
他人よりできるからなんだ? である。
他人よりできても何の役にも立たなければ
何の価値も生み出さない。
他人よりも高いその人特有の能力は
誰かのために捧げることで
初めてそれが輝きはじめる。

自衛隊最初の難関である前期教育隊は、自分の能力を自分の為に使っていては絶対に突破することはできない。もし、「突破できたよ?」っていう自衛官がいるとしたら、その人は前期教育の真の意味を理解していないだろう。

同期のサクラ

「個性」
教育業界が好んで使う言葉だ。
画一教育や偏差値教育を敷いているのに、
「個性」を重要視するらしい。
笑ってしまう。
しかし、教師が要求する個性と生徒が表現する個性が、まるで違ってしまうところは皮肉なものである。
どちらの「個性」も本物ではない。
その人の個性とは

極限まで均一化された世界において、それでもなお、均一化できない性質

だと考えている。
前期教育という非常に限定された世界の中で
全てを統制しなければいけない環境の下、私たちはそれぞれの得意不得意を埋め合わせて、困難を乗り越えなければならなかった。
区隊員は 37 名いたが、誰一人として 同じ ではなかった。
互いに支え合って苦難をともにした仲間たちは、皆がそれぞれ特有の色や形をしている。
そう。
同じなんてことはあり得ないのだ。
一人では乗り越えるとはできなかっただろう。
仲間に支えられて今の自分がいる。
そうやって辿り着いた場所で見ることができた景色は、決して一人では見ることはできなかっただろう。
今でもかつての同期に感謝している。
ありがとう。

前期教育終了の前夜、私たちは集められた。
教官は、
今夜でお前達の教育は最期だ。
 ひとりひとり前に出て、
 今の気持ちを言ってみなさい。」
と告げた。
仲間がひとりひとり、前に立って
言葉を発していく。
だんだんと、これまでの色々な想いが去来し
名状し難い複雑な気持ちになっていった。
同期の中で死ぬほど体力がなかったが、一際頭が切れて cool なやつがいた。
そいつは発表する前から、見たことがないくらい大粒の涙を流していた。
そいつをみて私は相当もらい泣きをしそうになったが、何とか持ち堪えた。

自分の番が回ってきた。
泣きたくない一心で、正直何を言ったかは全く覚えていない。
そして、だんだんと順番が最後に近づくにつれ、泣いていない者はいなかった

一番最後は、我が区隊のリーダーの役目をしていたやつだった。
そいつも cool なやつで、隊の中では一番優秀だった。
しかし、もうすでに結構泣いていた。
彼がみんなの前に立って発表しようとしたとき、彼は言葉を発することができないでいた。

どれくらい嗚咽していたのかはわからない。
しばらくして、彼はようやく言葉を絞り出した。

「自分の、意味のない人生の中で、唯一、意味のある 3 ヶ月でした。」

嗚咽混じりにきこえてきた彼の言葉は、何よりも重く、私の心を揺さぶった。気づいたら涙を流していた。
「男が、大の大人が、26 歳にもなって泣くことなんてあろうはずがない。」と思っていた。
でもあのときの涙は、いや、あのときの涙だけは、人前で見せてもよい涙だったと思う。

次の日には、我が区隊の班員 37 名は、それぞれ異なる任地に赴く。
我々は、今際の際の別れを理解していたのだろう。

卒業式の日に女子だけがどうして泣くのかを、このときになってようやく理解した。

教官達は簡潔に挨拶を済ませた。区隊長が最後の号令を発した。
「只今をもって、第3区隊を解散する。」
教官達が『班長バッジ』を外し、バッジの外れる音だけが響き渡る。
私たちはもう、私たちの戦闘隊はもう、終わったのだ。
清々しい気持ちと、2 度と来ることのない世界が今終わりを告げ
新たな世界に飛び込んでいく。
同期のサクラたちは、それぞれの場所で役割を全うするのだろう。

終わりに

自衛隊の前期教育は今でも自分の人生の糧になっています。
冒頭でも述べたように、この前期教育は大部分の人はできます。
でも実際にその過程を経験してみて、今まで自分のなかで気づかなかったことや、自分の中の傲慢な部分が鮮明に浮かび上がり、自分の矮小さや仲間の大切さを知るきっかけになりました。

国を護る覚悟はあるか

題名の言葉ですが、国防に従事したことのあるほとんどの人間にとって
この答えは明白だと思っています。


長い文章を最後まで読んでいただきありがとうございました。
この記事があなたの役に立てれば幸いです。

注: 画像の出典は陸上自衛隊HPから引用しています。

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