ありがとう!エジプトから渋谷
かわいいねこさんが「エジプトの狂想」を読んでくださり、こんなに素晴らしい感想を上げてくださいました。読んでいて自分の小説そのものよりも、胸が熱くなる内容でした。
先日、エジプト旅行から戻ったばかりのisoisoさん。こちらで、私の記事を取り上げてくださいました。
このisoisoさんの投稿は貴重だと思います。なぜならカイロ旧市街のスルタンハッサンモスクとアル・リファイモスクを訪れられ、こんなにも素晴らしい撮影をされているからです。日本ではレアです。
それからKaoRu IsjDhaさんはなんと!「エジプトの輪舞」「エジプトの狂想」の紙媒体の本を買ってくださったとのこと。大変ありがとうございます。
なお、かおるさんはチェコ在住のアーティストで、私の書く予定の「チェコの日々編」で改めて彼女のことを御紹介させていただきたく思いますが、
プラハで第一区(東京で例えれば「丸の内」ですね)のカフェ「クレメンティーナ」(ああ、さもヨーロッパな店名!)で常設原画展示会があるとのこと。
チェコお住まいの方、もしくはプラハへ訪れるご予定のある方はぜひ。そしてYOUTUBEでバーチャル展示会も見せてもらいたい!
エジプトの狂想(ラプソディー)
自分の書いた小説をちゃんと紹介するというのは、非常にこそばゆいですが、19世紀のエジプトを舞台にしたほぼノンフィクションです。
ストーリーは私自身の解釈で話は進めています。しかし裏付け、根拠がないことは一切入れておらず、架空人物たちの行く所や会う人々、経験することも全て「リアル」です。
アラビア語をまあまあ話し、人脈もある私が裏を取るのに「20年」かかり、やっと書こう、書けると思うまでそれだけかかったことを、初めてここで告白します。
*時代
時代背景は19世紀です。
1798年にナポレオン・ボナパルトの率いるフランス軍がエジプトを支配し、1805年に今度はマケドニアのタバコ屋の息子だったアルバニア人のムハンマド・アリが、どういうわけかエジプトの統治者になるところから始まります。
小説にも書きましたが、マケドニアはたばこ栽培が盛んだった、そしてアルバニア系が多くいた。
「どうやってエジプトまで移動してきたのかな?」
というルートを見つけるのにも、ああ時間がかかりました。何十枚も「手書き」で自分で地図も書きました。
*舞台
エジプトはオスマン帝国領土(といっても半自治権ありでした)で、正式国名もオスマン帝国エジプト領(アイヤレット・エジプト)です。これにスーダンもくっついてきます。しかも途中、シリアなどの領土も獲っちゃいます。ややこしいです。
それはともかく、19世紀のアレクサンドリアがいかに国際色豊かで素晴らしい街かというのを知っていたのと、
主役の一人と決めていたフランス人外交官のレセップスが最初、アレクサンドリアのフランス領事館に赴任しているため、
「カイロだけではなく、絶対にアレクサンドリアも舞台にしよう」
と決めていました。
ところがいざ書こうと調べだすと、驚くほど情報がありません。
1952年にクーデターを起こしたナセルが、それ以前の記録を徹底的に消したのは聞いていましたが、ここまで徹底的にやったのか、、、。唖然です。
結局、最後まで分からなかったのがアレクサンドリアにはゼゼニア劇場というイタリア人のピエトロ・アヴォスカー二(カイロのゲジーラ宮殿とオペラ座、アレクサンドラのティーン宮殿を建設した人物)を建てているのが分かったものの、
その前にもフランス人がもっと古い劇場を建てていますが、その劇場名です。
初演舞台が何だったのかというのも分かりませんでした。
二番目に建てられたゼゼニア劇場はイタリアの劇場の記録から辿って発見したのですが、やはり初演が何の演目だったのか全然分かりませんでした。とても苦労して「シェヘラザード」がでてきた時にはへなへな。
アレクサンドリアのギリシャ学校のもことも書きたく、当然「ギリシャ語の授業だった」を前提にしました。
だけども「アレクサンドリアはフランス語の街だった」という証言があまりにも多いため、今でも残るアレクサンドリアのギリシャ学校に問い合わせをしました。
聞いて良かったです。ギリシャ人学校では主にフランス語でした。
街中の繁華街の描写も盛り込みたかったのですが、くどいですが何も記録がありません。そこで子孫の人々に訊ねましたが、彼らも
「◯◯という店が繁盛していたらしいよ」
というものの、それが「1800年代の前半か後半か」が分からない。
調べていて初めて知ったのが、アレクサンドリアのギリシャ建築やインド建築、オスマン建築の建物の多くもイタリア人が建てていたこと。
アレクサンドリア以外、もう一つの舞台は首都のカイロと決めていましたが、こちらのほうがまだ地図など残っており、当時の町並みがイメージしやすかった。
だけどもムハンマド・アリ一族のたくさんあったはずのハーレムの記録がまったくありません。誰それが住んでいたどのハーレム宮殿がどこにあったのか、一切分かりません。
オスマン帝国側は詳しくハーレムやそこにいた女性たちの記録が残っています。この違いは向こうは数百年続いた歴史のあるハーレムであったので格が違ったことと、革命が起きた時、オスマン帝国の歴史を消さなかった違いだと思います。
エジプトのハーレムの記録は見事に見つかりませんでしたが、王族(正確には「王」ではありませんが)のハーレムの女たちは全員コンスタンティノープルのトルコ人の貴族の娘か、黒海地帯の誘拐奴隷の女のどっちかというのが分かりました。
そこでトルコとアゼルバイジャン、ルーマニア、スオミ、アルメニア、ブルガリア、ハンガリーなどのサイトへ飛び、そちらから探りました。で、初めてハーレムの「顔」、女たちの姿が見えてきました。
例えば、イスマイール副王の時(即位1863ー1879)は母親が息子のイスマイールの女を選び、まずゲジーラ宮殿(現マリオットホテル)で修行させます。
一通りマナーやルールを教えこんだ後、そのあとにアブディーン宮殿に連れて来られ、社交界デビュー。その次にイスマイールの息子を産むか寵愛を受けたら自分だけのハーレム(宮殿)を用意してもらえる。
しかし小説にも入れましたが、側室同士の足の引っ張りあい。嫉妬、、、。ある側室は別の側室にトルココーヒーに毒を盛られ、殺されかかり、身ごもっていた男児を流産(死産だったかな?)し、身体には後遺症が一生残りました。
このやられた側の側室も、もともとルーマニアから拉致され連れて来られた元奴隷です。見た目が愛らしいので
「ああ息子のタイプだな」
ということでイスマイールの母親のホシャール夫人(ルーマニア人)がその若い女性を買い取りました。
流産だが死産もし生死を彷徨って後遺症も残ったその側室の元に、呑気なイスマイールがお見舞いに現れ素晴らしい宝石を贈ります。
すると女性の方は「かんべんしてくれ」と言わんばかりに雪崩崩れ、
「お願いします、これ以上そういうものを私にプレゼントしないでください。また私は命を狙われますから、よして下さい」
だけども、イスマイール副王が追放された後、この側室は彼を追いかけて行きます。びっくりしました。何度も記録を読み返しました。
記録というのは、イスマイールがオスマン帝国に亡命していたため、そちら側で詳細が残されていたのです。
「え?わざわざ追いかけるの?」
男女の仲とは非常に不思議です。
ちなみにイスマイール副王もそうですが、ほかの支配者たちもあまりにも多くの正妻側室、妾を抱えており、しかも彼女たちは苗字がありません。ややこしいことこの上ありません。
またなぜそんなに女性が必要だったのか、少し分からないでもないのが、当時の子どもはほとんど成長する前に何かしらの感染症で死んでいます。驚くべき死亡率です。
*大変だったこと
書いていて大変だったのは、オスマン・トルコ語、フランス語、エジプト語、英語がぐちゃぐちゃだった時代のはずで、「誰が誰とは何語で会話していたのか?」からして分からない。
ムハンマド・アリ一族の男たちは同じ名前、もしくは似た名前のオンパレードで、出典の方もごっちゃになっているものばかりでめちゃくちゃ。
黒海エリアの変な国々のサイトに入らないと情報が出て来なかったと言いましたが、しかしそういった国々のマニアックなサイトに入ると、私のパソコンが「ウィルス警告」を何度も発する上、ええ実際にウィルス感染もしました。
予想はしていましたが「トロイの木馬」のウィルスも何度も私のパソコンを攻撃してきて、
「オスマン帝国め、ここでも!」
*発見
小説は大きく3本柱構成で、スエズ運河に関わったフランス人たち、アルバニア人またはギリシャ人のムハンマド・アリ王朝、そしてアレクサンドリアの外国人たち。特にギリシャ人。
全然繋がりのない3つの世界ですが「スエズ運河」が軸で繋がりがあるとしました。
しかしそれはいいのですが、ギリシャがオスマン帝国を独立したのも、「せーの」で一世に全土が独立したわけではありません。
ご存知のとおり、ギリシャには無数の島がありますが、島によって離れた年号がばらばらです。しかもまたしても、出典によりそれが全然異なります。
それに同じオスマン帝国の領土同士でしたが、その区間の移動のヴィザはどうなっていたのか。
また非イスラム教徒の関税もどうなっていたのか。
オスマン帝国本土の方の記録は比較的簡単に出てくるものの、オスマン帝国の領土だった国々の記録が出てきません。
エジプトを支配したマケドニア出身のムハンマド・アリ一族も
「あれ?」。
後継者ルールは「一族の最年長者が次期支配者の座に就く」はずなのに、途中からそうではないんです。
「おっかしいな」
頭を抱えました。家系図を書き出しましたが、どうもおかしい。
これはやはり「ハーレム」を再度「洗う」しかないなと思い、再び「トロイの木馬」ウィルスにびくびくしながらも、トルコやアゼルバイジャンなどのマニアックなサイトに入っていきました。
これらの国々の研究者は記録を残している上、トルコ共和国の父のアタチュルクはエジプトのナセルのように、オスマン帝国時代のハーレムの記録を隠蔽しませんでした。これが助かりました。
ハーレムの女たちを調べていくうちに、まずムハンマド・アリ一族には「養子」が入っていたことに気が付きました。しかもクリスチャンではないですか!
なおハーレムの女たちを見ていくと、パターンがあるのに気が付きました。コンスタンティノープルの貴族出身の女たちは誰も揉め事を起こしていません。
前述した、嫉妬による殺害未遂事件など全部、黒海地帯の元誘拐奴隷女たちが起こしています。気性や性格がまるで違う。
ところがムハンマド・アリ一族の男たちはそういう「アバズレ」の方ばかり溺愛しています、ああ男って、、、!
中でも強烈だったのが、ルーマニア出身の姉妹。
元々村から誘拐され、コンスタンティノープルの奴隷市場に売りに出されたものの、姉妹揃って器量が良かったため、姉はオスマン帝国スルタンの正妻になり、妹はエジプト総督の正妻になりました。
二人はそれぞれ息子を産み、彼らもそれぞれの国の統治者になるのですが、それはともかく、そのルーマニア姉妹よ、、、、
「あなたたちが裏でいろいろやらかしていたのね!」
このルーマニア姉妹のせいで後継者指名法が改正されてしまっていたことを突き止め、あと、
「なんで王族の墓が二箇所なんだろ?」
の疑問も解けました。
イスマイール副王とナポレオン三世の妻のウジェニー・ド・モンティジョ后の「関係」も???で、そもそも、ムスリムとカトリックの既婚者同士の王族の男女です。
これは記録を残すはずがありませんが、イスマイールの若い時のパリ留学の足跡とウジェニーがスペインのグラナダからフランスに移った時のタイミングなど照合し、芸能レポーターもびっくりするほどの(笑)執念で、このとうに百年以上も前に死んでいる男女の「不適切な関係」を突き止めようとがんばりました。
決定的だったのは、この写真です
1904年、年老いた喪服姿のウジェニー・ド・モンティジョが、目的を一切明かさずカイロに戻って来ています。夫のナポレオン三世もイスマイール副王も既に他界しています。
そしてエジプトでは古代エジプトの墓参りの風習がありました。
「ああ、そういうことなんだろう」
そこからウジェニー・ド・モンティジョとイスマイールの「話」が膨らみました。
エジプトの輪舞
「エジプトの輪舞」は20世紀が舞台です。
「狂想」で生まれたムハンマド・アリ王朝は「輪舞」で消滅し、
「狂想」で設立されたスエズ運河株式会社とフランス人レセップスの像は、「輪舞」でエジプト軍に押し入れられ、像は怒り狂った群衆に破壊されます。
「狂想」で華やかなセレモニーが開かれたスエズは「輪舞」で戦場になり、
「狂想」で建てられたシェファードホテルは「輪舞」で燃やされ、
「狂想」で完成したアブディーン宮殿は「輪舞」では大統領府になり、とどちらも独立した小説ですが「対」を意識しました。
技術的に諸々未熟ですが、知らざる事実を投入できたのは良かったかなと思っています。
輪廻転生やBLは迷ったものの、輪廻転生を入れないと結末に「救い」がないのと、私自身、私生活で辛いことがあったため、「救い」をどうしても入れたかった!
bLも迷ったのですが、主役を男女にするとどうもうまくいかない。
もっとも、最初は男女ペアで書いてみました。
しかし
「ずっと家で待っていた。やっと手紙が届いた」
こんなことしか書けませんでした。こりゃだめだと思ったのと、
「じゃあ女も外国人の設定にしちゃえばいい」
とも考えましたが、そうなると植民地の支配者側のうぬぼれが際立ち、
ちょっと違うなあと。
最終章「エジプトの祝歌」は頭の中では仕上がっておりますが
「もう蛇足じゃないだろうか?」
ムバラク政権の崩壊の時代になりますが、ムバラクの息子が自分が社長を務める会社がシートベルトを独占販売していたので、2001年にエジプトで車のシートベルト着用を義務化した、だのそういうエピソードばかりになります。笑
渋谷、ああ渋谷
話は変わります。
数日前、渋谷記事を投稿しました。
トーマス・クックシリーズ記事が意外と大変で手こずり、気分転換に15分でちゃっちゃと楽しんで口笛吹いて書き上げた記事です。
ところがこちらの記事の方が読まれておりまして、
人生はそういうものですね、、、!!!!!!
でも心より感謝します、御紹介ありがとうございます
https://note.com/note_travel/m/mdbdf9506baf1
おすすめしてくださった、いつも魅力的なチハヤさん↑、
そして作家でもあるみらいっちさん↓
https://note.com/ryuusinn/m/mb3981d7b07f1
そして、りゅうしんさん。ありがとうございました。
ロンドン在住のころのすけさん。
ロンドンっ子の彼女は輪舞バージョンを!さすがです。長年ロンドンに根付いたロンドン人しか書けません。なお、もともと東京の「ご近所さん」」というのもノートでなんとなく判明。ウケました😂
さあ、全員にナイルのメダルを差し上げなくっちゃ!
渋谷住宅側編、新宿編、六本木編も書こう!
トーマス・クックシリーズ、あともう少しです。フリーメイソン、イスラエルが最後にどかんとでてきますが、ふっとばされませんように🙏🤣
*トップ画像は、11歳で処分室から引き取ったぼろぼろだった元チャンピオン犬。華やかな渋谷散歩が大好きでした。
賞を獲得した後、繁殖に酷使され、♂でも身体がぼろぼろになりましたが、処分直前に保護できたので、最後の数年間は家庭犬として穏やかに過ごさせることができました。
散歩中、安倍晋三氏によく撫でて可愛がってもらえていたことを、ちょっと悩みましたがここで書いておきます。安倍元首相も元繁殖犬を引き取っておられました。
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