意外すぎるハイデガー① なぜハイデガーは「存在とは何か?」を考えたのか?

※この記事は『ハイデガーの哲学 轟孝夫』 を元に作りました

なぜハイデガーは、あんな七面倒くさい「存在とは何か?」を考え続けたのか?

A.神とは何か、神性の本質とは何かを考えるために、これまで哲学で続いてきた存在論を作り直す必要があると考えたから。

😀「おいおい、ハイデガーは無神論的実存主義だろ。神のことなんか考えてるわけがないやん」

いや、後期の著作の中で、神について書いてるものがちらほらある
(たとえば「哲学への寄与」で最後の神とかなんとかが出てくる)

そもそも、ハイデガーの有名な「存在と時間」て本は、キリスト教が背景にあるらしい。

轟孝夫さんの解説 リンクは↓


『ハイデガーの哲学 轟孝夫』によると、何か神的なもの、超越的な何かがあるって直観がハイデガーにあったらしい

書かれた解説をかいつまんでみると

・ハイデガーは元々、近代主義からカトリックの信仰を守りたいと考えてたらしい(ハイデガーの出自はカトリック)→大学で神学を学ぶ
→現象学に出会って、影響を受ける 

※ハイデガーの考えたことは、宗教的な体験とか生き方に対して「神的なもの」の超越性を認めつつ、超越的なものについての直接的な体験はできるんじゃないか、て感じ。
現象学なら、超越的なものの体験を分析する際に、神的なものの超越性を守りながら人間の体験を説明できると考えてた模様

→キリスト教文献(パウロとかアウグスティヌス等々)の現象学的解釈をやり始めた。
これの目的は、原初の宗教経験を現象学的に分析してみて、宗教的な生き方や体験(この頃のハイデガーはこれを事実的生と呼んだ)が何だったのかを明らかにすることだった
→その結果、神学に問題を発見した
・研究をやってみたら、神固有の超越性をうまく捉えられないとわかった→じゃあ何が原因なのか
→キリスト教が影響を受けているギリシャ存在論に問題があって、宗教的経験(事実的生)の本来のあり方が隠れてしまっている
→(アリストテレスの研究もやってみた結果)事実的生がどのようなものだったのかを捉えないと、「神的なもの」も分からない
→存在論を作り直さないと、神性が分からない

ハイデガーが「存在とは何か?」を考えてるとき、その背景に「神とは何か?」「神の本質とは何か」「人間のあるべき生き方の実態は何なのか」といった問いが繋がっているようです。

…宗教の用語を使ってないだけで、無茶苦茶宗教的というか倫理的な感じがあるェ😨

※「存在と時間」は、キリスト教の人間のあり方を、より普遍的に脱構築、再構築したものと言えるらしい。それを理想的な生き方だーとはわいあんま思わんけど、少し疑問が解けた。

※オマケだけど、ハイデガーは影響を受けた人に、アリストテレスやフッサールだけじゃなく、ルターやキルケゴールも挙げてる



まとめ

なぜハイデガーは「存在とは何か?」を考えたのか?

神性の本質とは何かを考えるために、これまで哲学で続いてきた存在論を作り直す必要があると考えたから。

存在への問いは根源的な神性への問いでもある…らしい!

わからんけど😀!

参考文献
・ハイデガーの哲学 轟孝夫
・ハイデガー『存在と時間』入門 轟孝夫←わい読んでないけど、存在と時間のワケワカメ加減を少なくして、わかり易く解説してくれてるみたいなので、オススメしときますね


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