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高齢者を赤ちゃん扱いする

※個人の感想なので石を投げないでください。

炎上しそうなタイトルだ。


私がまだうら若き乙女だったころ、祖母が認知症になった。
祖母とは一緒に暮らしてはいなかったが、その祖母を介護していた叔母から認知症中期の理性というタガを失いかけている人間の壮絶な闘いについては伝え聞いていた。
その嵐がだんだん、あるいはある日ぱったりと、なりをひそめて末期へと進行していく。
末期になると多くの認知症のひとは、寝たきりになり、だんだん食べるということが難しくなっていく。
出せる言葉のバリエーションも減っていき、意思疎通も徐々に難しくなっていく祖母に対して、叔母はいつも幼児をあやすように甲高い声で
「どうしたの?」
「大丈夫だからね、大丈夫」
「おかあさん、ここが痛いの?かわいそうだねぇ」
「くっく履くからね~」
と繰り返した。

まだ人間を知らなかった私はそれを見て、(尊厳のある人間なはずなのに、なぜ赤ちゃんに接するような態度をとるのか)(私が読んできた看護総論みたいな本にも、高齢者に対してきちんと尊厳が保てるような関わりをするべきと書いてあった)と、非常にモヤモヤしたのだった。
そして、将来自分が仕事やプライベートで高齢者とかかわる時には絶対に赤ちゃん扱いのようなことをしない、と心に誓ったのである。

時は流れて令和。
私はいま、その叔母を介護する立場になった。
叔母もまた認知症を発症し、紆余曲折を経て、おそらくいま、末期に向かっているところではないかと思う。
叔母は、病院への入院を期に一気にいろいろとガタが来て、言語のレベルもとんでもなく下がってしまった。
いま、彼女が口にするのは、本人も言いようのない不安と、寂しさ、おしっこのこと。
言いようのない悲しさと、なんともできない無力感と、決して満たされない寂しさへの罪悪感とを感じながら、私は叔母に対して
「大丈夫だからね、大丈夫」
「ここにいるよ」
「ここでおしっこしてもいいんだよ」
と繰り返し声をかける。

そんな自分にふと気づき、あ、これは赤ちゃんに対する声掛けだ、と思った。
叔母がこんな状態になってふと、自分がかつて固く誓ったことのなんと難しいことか、ということを思い知ったのである。

実際に介護をする立場になって初めて分かったことだが、赤ちゃんのような言葉がけをしてしまうのは、きっと介護者側が赤ちゃん扱いしたいとか、バカにしてるとか、何も考えていないとか、そういうことではない。
介護される側が弱っていき、一人では何もできなくなり、考えもまとまらなくなって不安になっていった時(もちろんそうではない高齢者も当たり前にいる)、まずはじめに、赤ん坊のように不安がる高齢者がそこにいるのだ。

介護も、介護以外も人間関係はすべてお互いの相関関係でできている。
相手が怒ればわたしはびっくりしたり、泣いたり、悲しんだり、怒り返したりする。
相手に殴り掛かられればわたしは防御する。
不安がり安心を求める乳児がいれば、一定数の人間は母性的なケアを提供しようと試みる(そうじゃないケースもある)。

世の中にはケアを求める声に敏感な人というのが一定数いる。(感受性が強い、という言葉で表現されやすい)
そういう人は、相手がケアを求めていると分かると、それに対して自分の持っているケアをする人としてのキャラクターが引き出されやすいという側面がある。
そういう人は介護や看護を生業とする人たちの中にも一定数いて、その結果、赤ちゃんのように不安になった高齢者に対して、求められるがままに赤ちゃんのように接するという構図が生まれるのである。

余談だが、なんだか身の回りに人生うまくいかない友達が多いなという人はこのタイプが多いんじゃないかと思う。私もそうだが、いつも明るく人生を上手に渡れるタイプの人を見るとすごいなぁいいなぁ羨ましいなぁとは思うが、そういう人はわたしを必要としていないので、何のキャラクターも引き出されず、結果なんの関係も持てない。
言い方を変えると、相手に(情緒的な)何かを求めている人の前でしか、わたしはわたしでいられないのだ。

もちろん、そこには同じ穴の貉(わたしも人生難しいタイプなので)の安心感も加わっていると思うが、私も昔から仲良くなる人間はたいてい世渡りが下手だったり、変わっていたり、家庭で苦労していたり、そんな人が多かった。
わたしのような人は子育てにも依存しやすい。
先日わたしの娘が学校行事で一泊二日家を不在にしたことがあったが、その際わたしは自分がどうしたらいいのか、アイデンティティが崩壊してやわやわのふやふやになってしまう感覚があった。
「ママー」と呼ばれ、「はやくしなさい!」と怒鳴り、そういう非常にめんどくさくてストレスフルなやりとりが、わたしを成り立たせているのだなという、非常に残念な気づきであった。
一番下の娘が保育園から帰ってきてくれたことでまた元の容れ物に戻ることができたが、あのまま娘が不在だったらわたしはもとに戻れないで赤ちゃんになっていたかもしれない。これは、私のこれからの課題であり、頑張ってコントロールしていかなければならないことだと思う。

話がだいぶ脱線したが、つまり、介護をする上でで重要なのは、相手が何を求めているかを判断するキャッチ力であり、どの介護の姿勢が正解、というものは無いのである。(と、わたしは思った)
母性的なケアを求める人には母性的なケアをしたっていいし(引き出されない人はしなくていいと思う)、相手が母性的なケアを求めていない、ひとりの人間として振る舞い尊重されたいと思っている人であれば、そのように尊厳を守る関わりをするだけのことである。

あるいは、ケアを求められていることがわかっていても気持ち悪いと思ったり(わたしは母親が今自分がどんなにしんどいかを説明するために、毎回こうなった自分の体を触ってみろと言われ、それが死ぬほど嫌でしんどいのでそういうこともあろうと思う。他人ならいくらでも触れるのに、だ。)、単純に忙しかったり、それでも自分はこうしたい、と言う信念があったりと、介護する側にもそれぞれの事情があるだろう。
つまり、介護される側の求めと、介護する側のこころの余力に合わせて、できることが決まってくるというだけだ。

そんな簡単なことも、私は自分が経験しなければ気づけなかった。
人間は無知で、自分が体験していない世界をどんなに想像を尽くしたとしても、本当に知ることはできないんだなぁとつくづく思う。

今日も私は仕事帰りにホームに寄って、叔母の口にゼリーを運ぶ。
「おいしいでしょ、おいしくない?だめかぁ~」

どむ

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