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対馬巡礼記 弐・守之譚


今から15年ほど前、「レム色」という2人組の芸人がいた。
回文(上から読んでも下から読んでも同じ文)を用いたフリップ芸を得意とするコンビだった。

今回、寺の宿坊に泊まることを決めた際、ふと彼らのネタの一つが思い出された。

この朝の1杯は、レム色の2人に捧げるものである。

そのネタの亜種として、「寺でたまにガニ股でラテ」というものもあった。
飲んでいるときの私は、たまにガニ股であった可能性がある。

本日の旅程

さて、今日が実質的には観光初日となった。
本来であれば昨日厳原いずはらエリアをある程度観光する算段だったわけだが、予定を変更して南部の観光は見送ることにした。
厳原北部の外せない名所を回ってから北へ、豊玉とよたまエリアの西岸を一気に抜けて上県かみあがたの対馬北端を目指す忙しい1日となった。

本日の旅程
ゴーストオブツシマの地図を復習

朝食を取って、宿坊を後にする。
昨日到着した際にはすっかり日も暮れていたので、改めて建物を見て回った。

思った以上に寺だった。宿泊者向けに朝6時から座禅を体験することができたそうだが、煩悩にまみれた私が睡眠欲に打ち克つことはなかった。


まずは観光案内所に向かい、情報収集を行う。

ここでは、観光情報の他、対馬の地理や歴史についての情報も展示されている。

対馬が歴史に登場するのは、古く「魏志倭人伝」の時代に遡る。また「古事記」においても、日本で最初に生まれた八つの島々「大八島」の一つとして登場する。

福岡よりも釜山のほうが距離的に近いというその立地から、古くから外交そして軍事上も重要な場所として認識されていたことがよく分かる。

そして資料館にはある動物が鎮座していた。

ゴーストオブツシマで、対馬の随所にある稲荷の近くに生息し、主人公・仁を稲荷の場所へと導いてくれ、参拝後には撫でさせてもくれるキャラクターである。

その可愛さは多くの境井仁を虜にし、ゴーストオブツシマ発売一周年の人気投票では、並み居る人間を押しのけ一位に輝くなど、高い人気を誇っている。

しかし、大変残念なことに本当は対馬に狐は生息していない。我々のような聖地巡礼者のために置かれたものであるらしい。

かわりに対馬を代表する動物が、ツシマヤマネコである。

ベンガルヤマネコの亜種であるツシマヤマネコは対馬にしか生息しておらず、現在では100頭ほどしか生息していない希少種である。

前日夜、居酒屋の帰りに偶然猫らしき生物を目撃し、「ツシマヤマネコか?!」と色めき立ったが、改めて特徴と照らし合わせた結果、完全に普通の猫だったということがわかった。

ツシマヤマネコは絶滅危惧種のため保護・繁殖活動が行われており、上県エリアにある野生生物保護センターでその姿を見ることができる。
当初は訪問する想定であったが、到着遅れによる予定変更の結果、生ツシマヤマネコを見ることは叶わなかったのが残念でならない。

なお、対馬のご当地ゆるキャラは、ツシマヤマネコのつしにゃんである。
手にはご当地銘菓のかすまきを持っている。

また、併設のお土産屋には、聖地だけあってゴーストオブツシマのグッズが並んでいた。

せっかくだからなにか買っても、と思ったのだが、どうも物欲をそそられるものがなく、手を出さなかった。

ゴーストオブツシマグッズはアパレルやコップなどしか展開されていなかったのだが、せっかくならば手に取りやすい食品でも展開し、「誉れを食べて飢えをしのごう!志村の誉れかすまき」などを発売すれば良いと思う。

日本三大墓地

厳原の町を去る前に、中心地にある名所を訪れることにした。


ここ萬松院ばんしょういんは1615年に建立された菩提寺であり、金沢の前田藩墓地、萩の毛利藩墓地とならび日本三大墓地と称されている。

ゴーストオブツシマにおいて、この萬松院がモチーフとなっていると思われるのが、黄金寺である。

黄金寺・入口

蒙古襲来によって住む家を失った流民たちを受け入れており、ゲーム序盤で頻繁に訪れる場所である。

早速中へ。
受付を抜けると、ゲームを彷彿とさせる光景が待っている。

百雁木と呼ばれる132段の立派な石段と灯籠が印象的である。
ゲームの黄金寺では雁木の下に仁王像が設置されていたが、

萬松院では門の左右、柵に隠れるように設置されていた。

雁木を上った先には墓所があり、そこに眠るのは歴代対馬藩を治めた宗氏の一族だ。

鎌倉時代から明治初期までの長きにわたり、対馬を支配した一族であり、ここには室町期の十代当主宗貞国から、主には江戸期の藩主の墓が並んでいる。

また、朝鮮との国交を担った一族の墓所だけあって、朝鮮国王から送られた物品なども保存されている。

そんな萬松院と厳原の街を後に、本来聖地巡礼をするならば一番に訪れるべき浜へと向かった。

誉れが死んだ浜

やってきたのは西岸に位置する小茂田浜である。

小茂田浜といえば、ゴーストオブツシマでは「誉れが死んだ浜」としてあまりにも有名だ。

POINT:”誉れ”とは武士の誇り(ある行い)のことであり、ゴーストオブツシマにおける重要な要素である。

対馬に攻め入る蒙古の軍勢が上陸したのが小茂田浜である。

対馬の武士たちはわずか80騎でそれを迎え撃った。圧倒的な勢力差の前に武士団は主人公・仁と、伯父の志村を残して全滅してしまう。この出来事が、仁を侍から冥人くろうどへと変える最初のきっかけになるのである。

作中屈指の名言

蒙古の鷹が見張る中、早速浜へ。

蒙古兵には鷹を連れているものがおり、上空から偵察して敵を見つけると蒙古に知らせる厄介者である。

そこで目にしたものは浜を埋め尽くすゴミだった。

作中、小茂田浜には息絶えた多くの武士たちが横たわっていたが、今回横たわるはゴミである。

戦のあとの浜

本来小茂田浜は海水浴も楽しめる美しい浜である。それがどうしてこんなことになっているのか。
対馬は韓国に近く、海洋ゴミが多く流れ着く場所であるらしい。そして奇しくも昨日猛威を振るった台風11号は、小茂田へ多くのゴミを残していったのだ。

これは誉れも死にますわ。。。
そうつぶやきながら浜を眺めるほかは無かった。

ゴーストオブツシマで描かれる小茂田浜の戦いは史実に基づいている。
それを示す場所が小茂田浜に隣接している。

ここ小茂田浜神社には元寇との戦いで命を落とした武士たちが祀られているのである。

1274年11月5日、蒙古軍は対馬の西岸・小茂田浜に上陸し、西海岸一体を侵略した。3万の兵を率いた蒙古の大将は忽敦こつとんという男であったそうだ。

この忽敦をモデルにしていると思われるのが、ゴーストオブツシマにおける蒙古のボス、コトゥン・ハーンである。

コトゥン・ハーン

チンギス・ハーンの孫、フビライの従兄弟という設定のコトゥンは知略に長けた冷徹な大将として、自らに従わない対馬の民を蹂躙し、最強の敵として仁の前に立ちはだかる。

なお、近年ではコトゥン・ハーンが日本の運転免許を保有していた可能性が指摘されている。

そして神社には、そんな蒙古軍に立ち向かう一人の武士の像があった。

この人物が、対馬の大将・宗助国である。
対馬の地頭代であった宗助国は、蒙古襲来時には既に68歳の老将であったが、80騎あまりの兵を率いて蒙古3万の大群に立ち向かう。対馬軍は敵の将を倒すなど善戦したものの、5時間後には全滅し、助国も命を落としてしまった。
助国の首塚と胴塚が離れた位置にあることが戦の壮絶さを想像させる。

宗助国は死後600年以上の時を超え、1896年に対馬の民の請願によって従三位の位を贈られている。また、彼を祀る小茂田浜神社では毎年11月の第2日曜日に武者行列が行われ、蒙古を迎え撃った海へ弓を構えて弦を鳴らす儀式が行われる。

圧倒的に無勢な中で国と民を守るために命を賭した武士の誉れを、対馬の人々は今なお忘れていないのである。

そんな宗助国がモデルと考えられるゴーストオブツシマのキャラクターが、”誉れおじさん” ”石頭誉れBOT”などの愛称で親しまれる、主人公・仁の伯父、志村である。

志村

対馬を治める地頭であり、父を早くに亡くした仁の父代わりとなり、誉れを重んじる武士となるよう育てたのが志村である。
史実の宗助国とは異なり小茂田浜の戦いで志村は生き残るも捕虜となり、金田城へと幽閉される。志村を奪還することがゲーム序盤の重要なミッションとなる。

伯父上救出作戦

というわけで次に向かったのは、志村伯父上が幽閉された金田城である。

金田城かねだじょう(かなたのき)は、対馬の中央部に位置する城跡である。その歴史は古く、飛鳥時代667年にまで遡る。
663年の白村江の戦いで、唐・新羅の連合軍に敗れた日本では、天智天皇の名により防衛網の強化が行われた。
朝鮮半島に近い対馬も例外ではなく、国防の最前線として山城が建設されることになり、金田城が建設され、関東から徴兵された防人たちが警備にあたったそうである。

ゴーストオブツシマにおいては、小茂田浜の戦いで拘束された志村が監禁されるのが蒙古に占拠された金田城であり、仁は伯父上救出のために味方を集めて金田城攻略を企てる。

なお、現実の金田城は8世紀初頭には廃城となったとされており、元寇の時代にはこのような立派な城郭は存在しなかったようだ。

囚われのピーチ志村を救うべく、いざ城へ。
古代に山を切り開いて作られた城なだけあり、車も行き違えない細い道を進み、更に駐車場からは登山道を歩くことになる。道には枝が散乱し、昨日の台風の威力を改めて思い知らされた。

既に当初の予定から大幅に遅れていたこともあり、急ぎ足で先へ進む。
途中、森が開けて浅茅湾あそうわんの美しい姿も見えた。

更に歩くことしばし、ついに城の痕跡が姿を表す。

山をぐるりと取り囲む石塁(石垣)は、全長2.2kmに及ぶ。硬度の高い石英斑岩が現地調達できる地の利を利用しているとはいえ、1350年以上前にそれだけの規模の守りを固めたところに、当時のヤマト政権の高い危機意識と防衛拠点としての対馬の重要性がうかがえる。

築城から1200年以上後の日露戦争においても金田城跡に砲台が築かれており、近代でもその重要性は変わらないようだ。

まだまだ山頂部までは遠い道のりだ。しかし、ここで時間切れとなった。これ以上金田城に時間を使っては、予定を消化できなくなる。伯父上の救出は断念し、引き返すことにした。

志村伯父上には申し訳ないことをしたが、彼は誉れを食べて飢えをしのげるし、お強くていらっしゃるので自分でどうにかなさるだろう。

お怒りの地頭様

新たなる地の果て

これより厳原を後に、北上して豊玉をめざす。
その前に時刻は昼をとうに過ぎ、昼食の頃合いだ。

そば粉100%の対州そば(右)と、さつまいもを原料につくられたせんそば(左)の二種盛りのそばをいただいた。

香りが高く、コシのある対州そばと、でんぷん質でぷるんとした食感のせんそば、それぞれの味わいが楽しめる逸品だった。

昼食後更に北上して、橋へと差し掛かる。

もともと対馬は1つの島であったが、1900年に航路確保のために開削された結果、上島と下島に分離された。その境となっているのがこの万関橋である。

この橋を渡れば豊玉エリアに入る。
予定より遅くなってしまったため、取り戻しを図るべく車は北へと突き進んでいった。


破之譚に続く

最後までご覧いただきありがとうございました。




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