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山に浮かぶ廃墟・スピシュ城

世界には「天空の城ラピュタ」のモデルになったと言われる城が山ほどある。
実際に公式に参考にしたと言われているのは北ウェールズにあるカナーヴォン城とのことなので、おそらく他はモデルにはなっていないのだろう。
ラピュタみたい!」→「ラピュタのモデルになってたりして」→「ラピュタのモデルになったとも言われる」 おそらくこんなところだろう。
今回取り上げるスピシュ城もおそらく実際にはモデルになってはいないと思われる。だからどうした。いざ現物を目の当たりにするとそう思わせてくれるだけの迫力を持った城であった。

スピシュ城はこんなところ

スピシュ城(スピシュスキー城とも言われる)は、中央ヨーロッパ・スロヴァキアの東部にある廃城である。
その歴史は13世紀にまでさかのぼり、タタール人の襲来に備えて建造されたと言われている。その後幾度となく改修が加えられたため、様々な建築様式が混ざりあう、中欧でも最大クラスの巨大な城となっていったが、18世紀の火災で廃墟となってしまった。現在は「レヴォチャ歴史地区、スピシュスキー城及びその関連する文化財」として世界遺産にも指定され、徐々に改修が進められている。

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スピシュ城へのアクセス

スピシュ城に行くためにはバスで麓の町であるスピシュスケー・ポドフラディエ(Spišské Podhradie)に向かうのが一般的だ。
スロバキア東部にある同国第二の都市、コシツェからの場合、直通バスか、あるいはスピシュスケー・ブラヒー経由で向かうことになるだろう。
かつては鉄道も走っていたようだが、どうやら廃線になったようである。

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スピシュスケー・ポドフラディエ駅跡

私もバスで向かう予定であった。しかし、結局のところ人にはおすすめできない行き方で向かうことになったのであった。

スピシュ城へのアクセス(非推奨)

ゴールデンウイークを利用してハンガリー・スロヴァキアへ久々の一人旅をしていた私は、ハンガリーのエゲルでワインをたんまり飲んだ後、夜にスロヴァキア第二の都市コシツェ入りしていた。
そして翌日、昼前のバスでスピシュ城へ向かうことにしており、コシツェの町にはさほど観光資源もないので、ホテルの朝食時間までの間、特に当てもなく街を歩きまわっていた。

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コシツェの街歩き

そこへ犬を散歩させていた小太りのおじさんに英語で話しかけられたのであった。
スロヴァキアでは、他国と比較して英語が通じづらい。観光地の店員ならまだしも、そのあたりを歩いているそれなりの年齢の人で英語が通じるのは珍しい。
どこから来たんだ?日本から。みたいなトークをひとしきりした後、

おじさん「今日はどこに行くんだ?」
私「スピシュ城へ。」
お「スピシュ城か!今日この後タトラにスキーに行くから、途中まで車に乗せてってやろうか?

その刹那から私の脳内で様々な計算が始まる。
私(これ、ラッキーじゃね?)
私(いやいや、怪しいだろ、変なところ連れて行かれて身ぐるみ剥がれてポイだろ)
私(でも英語喋れるってことは、そこそこちゃんと教養ある人じゃね?)
私(そういうのに限って知能犯なんだよ)
私(でも、最悪喧嘩したら勝てそうじゃね?
私(一理ある)

私「お願いします(^^)」
お「OK」

こうして、スピシュ城へのアクセス方法が確定したのであった。
思えば前日のハンガリーからスロヴァキアへ向かう電車の中、たまたま隣りに座った現地の若者が日本語を勉強しており、教えてあげたら大層喜ばれて仲良くなったという経験から、気が少々緩んでいたのかもしれない。

とはいえ最悪喧嘩で勝てたとしても、不安は不安だ。
その後ホテルまで来てくれたおじさんの車のナンバーをさり気なく撮影して、万一のためにSNSにそれとなくUPしておく。
そしておじさんとの道中が始まる。

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お「ちょっと改装中の別荘に寄らないといけないから寄らせてくれ」
私(やっぱり変な所に連れて行かれるパターンか?)
お「着いたぞ」

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私(ほんとに別荘だ。。。)
お「I have 3 houses. 3 cars.... 1 wife, HAHAHA!!!!」
私 ^^;(あれ、この人金持ちでは?)

お「途中に綺麗なマナーハウスがあるから連れてってやろう」

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Kaštieľ Andrássyovcov

お「折角の記念だからこの絵はがきセットを持って帰れ」
お「アイスを買って一緒に食べよう」
私(あれ、このおじさま神では?)

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タトラ山地が近づいてくる。
お「ここがポプラド・タトリの駅だ。ここからタクシーに乗っていくといい。私が運転手と話をつけよう。」

車中での会話によると、どうやら医者だったらしい。後で名前で検索すると確かに医学論文がいくつか出てきた。
疑ってごめんよピーター。あんたは聖人だ。

こうして、途中からタクシーに乗り換え、スピシュ城を目指したのであった。(タクシーの運転手はスロヴァキア語しか話せなかった。自分だけでは乗れなかったかもしれない。重ね重ねありがとうピーター。)

とはいえ、旅の道中話しかけてくれるいい人と悪人を見分けるのは難しい。
私はとても運が良かったのだろう。
決して皆様に推奨することは出来ない行き方であった。

いよいよスピシュ城へ

前置きが長くなってしまった。
タクシーに乗ることしばし、遠目にスピシュ城が見えてくる。

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スピシュ城・遠景

デカい。中欧最大級は伊達ではない。
なお、麓の町であるスピシュスキーポドフラディエからスピシュ城に行くにはハイキング感覚で登っていくしかないのだが、町とは反対側からならば車で登れる。城の裏側はのどかなものであった。

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スピシュ城の中

城に入ると、中はご覧のように廃墟である。

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しかし、復元工事も進んでいるらしい。ひょっとしたら今後はもっと火事になる前の城の様子が再現されていくのかもしれない。
かろうじて残った建物の内部には境界の他に当時の物品が展示されている。

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どうやらこの城も歴史ある城あるあるで、監獄だった時代があるようだ。
拷問器具なんかも展示されていた。
その他には、当時の様子を再現する?ショーなども行われていた。
世界遺産なだけはあり、いろいろと訪れたものを楽しませる取り組みがあるようだ。

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しかし、やはり景色が素晴らしい。
この中庭、といえばいいのか砲台などがあるところも絵になるし、

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城から見下ろす麓の町も見事だ。

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逆に中庭から城を見上げても、やはりスケールの大きさを感じさせてくれる。

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大きな城というのは色々あるが、ここまでのサイズで、しかも周りにあまり他の建造物がない、というのも珍しいのではないだろうか。
外から見ても中から見ても堪能できる景色であった。

荷物は置いて出かけよう

こうして、大満足で城を後にした私は、麓の町であるスピシュスキー・ポドフラディエに向かった。スーツケースとともに。
先程も書いたとおり、城からスピシュスキー・ポドフラディエに行くにはハイキングよろしく道なき道を降りていくしかない。
裏の駐車場でタクシーを待たせなかった私は、スーツケースを持って山を降りるしかないのだ。(なお、城内では受付で預けることが出来た。)
城へアクセスする経緯が経緯だけに致し方ないのだが、大層骨の折れるハイキングだった。

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しかし、スピシュスキー・ポドフラディエの町から見るスピシュ城もまた格別だ。徐々に近づいていく、徐々に離れていく城を見ながらのハイキングもまた格別だろう。荷物さえなければ。
ちなみに、城が焼ける前、最後の城主だった一家は不便さ故に麓の町に邸宅を作ってそちらに移り住んでしまったらしい。
さもありなん、である。

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スピシュスキー・ポドフラディエの街から

スピシュ城のマグネット

スピシュ城のマグネットがこちら。

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正直これしかなかったので、選択の余地がなかったのだ。
本当ならばもっと色がついているのが良いのだが、これはこれで廃城らしい無骨さが感じられて味があるようにも思えてくる。

終わりに

私がこの時ハンガリー・スロヴァキアを一人旅することにしたのは、複数人でいく旅に若干マンネリを感じていたからだった。
それはそれで楽しいのだが、なんとなく物足りなくなっていた。
なので、一人旅を、それもあまり英語が通じなさそうなところで日本人もいなさそうなところで、と考えたのだった。
一人旅は現地の人々との交流頻度が増える。
改めて私は運がよかったと思うので、現地人の誘いにホイホイついていくことを勧めはしないが、時にそういった適度な交流は、なんでもない移動や街歩きを忘れられない思い出に変えてくれることもある。

スピシュ城は、その景色の見事さは言うまでもないが、ピーターの優しさが私の旅の中でも指折りの良い思い出にしてくれたのであった。

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最後までお付き合い頂きありがとうございました。
次回もスロヴァキアから、スロヴァキア人の心のふるさとを取り上げようと思います。

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