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漫画名言の哲学11 無関心の大罪 ―『呪術廻戦』と「悪の陳腐さ」

私は少年ジャンプを読むたびに、人間の本質について考えさせられる。特に『呪術廻戦』は、現代社会の闇を鋭く描き出す作品だ。
その中でも、いじめられっ子の吉野順平が放った言葉には、強く心を揺さぶられた。

思考放棄と共犯性

『好きの反対は無関心』
なんて言った人は ちゃんと地獄に落ちたでしょうか

芥見下々「呪術廻戦」

この言葉は吉野順平と、呪霊である真人との会話で発せられた。日常的な暴力に晒されていた順平は、周囲の「無関心」という名の共犯性を見抜いていたのだ。

この言葉は、アイヒマン裁判を通じて「悪の陳腐さ」を見出したハンナ・アーレントの洞察と響き合う。アーレントは、最も恐ろしい悪は非凡な悪意からではなく、考えることを放棄した凡庸さから生まれると指摘した。


アーレントの「悪の陳腐さ」

アーレントが1961年のアイヒマン裁判を傍聴して見出したこと。それは、ナチスの大量虐殺を可能にしたのは、特別な悪意や狂信ではなく、むしろ「考えることの欠如」という凡庸さだった。
アイヒマンは決して怪物的な人物ではなく、むしろ平凡な官僚だった。彼は自分の行為を「命令に従っただけ」と正当化し、その行為の意味を深く考えることを拒否した。

この「悪の陳腐さ」という概念は、現代社会にも通じる。人々は「無関心」を装うことで、目の前の不正から目を逸らす。それは思考を放棄した「善意」であり、時として積極的な悪意よりも深い傷を社会に残すのだ。

「好きの反対は無関心」という言説は、一見すると洗練された思考のように見える。しかし、それは責任の放棄を正当化する修辞に過ぎない。アーレントが論じた「思考の拒否」の現代的形態とも言えるだろう。無関心を装うことで、目の前の不正から目を逸らす。その態度こそが、新たな暴力を生み出すのだ。

順平は続けて「好きの反対は嫌い」だと断言する。これは単純な二項対立への回帰ではない。むしろ、関係性から逃げ出すことの不可能性を突きつける宣言だ。アーレントが示したように、我々は世界との関係性の中に投げ出されている。その事実から目を逸らすことはできない。


無関心でいることの恐ろしさ

現代社会では、「無関心」という態度があたかも成熟した振る舞いであるかのように称揚される。SNS上の「ブロック」や「ミュート」という機能も、その延長線上にある。物事に深く関与しないことが、むしろ賢明な選択として語られる。

しかし順平の言葉は、そうした安易な逃避を許さない。彼は「シンプルな答えを複雑にして悦に浸る」日本人の習性を皮肉った。それは同時に、「無関心」という複雑な概念で真実から目を逸らす私たちへの痛烈な批判でもある。

アーレントが警鐘を鳴らしたように、思考を放棄した「善意」は、時として積極的な悪意よりも深い傷を残す。「無関心」を美化する言説は、実は最も危険な暴力を隠蔽しているのかもしれない。その意味で、この言葉を最初に発した人は、確かに地獄に落ちるべきなのだ。


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