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風邪もなんとか小康状態。相方も峠は越えたらしい。息子もサッカーのトレーニングに参戦。娘は友人たちと学校が終わってから会っているらしくまだ帰ってこない。徐々に平常運転になりつつある。 施術後の産婦人科検診も問題なし。何度か陽性になっていた検査も問題なし。ひとりでになくなることもあるらしい。体って不思議。予約なしで行かざるを得なくて2時間以上待たされたが結果オーライである。 その2時間で『ツバキ文具店』をかなり読み進めることができた。こういう強制的に数時間待たなければいけない
あぁ、いい文章だなぁ。田所淳嗣さんの「スローシャッター」からの一文である。 本を読んでいるとこんなふうに、ふと自分が聞きたかったフレーズと出会うことがある。まさに偶然の出会い。そんな出会いを求めて、たまに本を手に取りたくなるのだと思う。 小学生の頃は本を読むことに文字通り没頭していた。母親が「ごはんよー!」と呼ぶ声で現実に引き戻されることが度々あったし、本の世界に浸れるように昼間からカーテンを閉め切った部屋の中で本を読んでいたくらい。もちろん、待ち合わせて誰かと帰る、とい
「旅にばかり出ている」と書いたが、日々の仕事や育児もあるので、実際に長期で旅行するのは学校休暇に合わせて日本に一時帰国するくらいになってしまった。そんな年に一度の一時帰国も、コロナ禍以降はフライト料金が高騰しておりハードルは高くなる一方である。 それでもまだコロナ禍に比べれば移動が物理的に制限されるわけではないからいい方だ。そんな風に思っていたら、今度はロシアのウクライナ侵攻の影響でロシア上空が飛べなくなってしまった。何か有事があるたびに日本がその分、文字通り遠ざかっていく
育児に仕事にマイプロジェクト、、、とやりたいこと・やらなければならないことは相変わらず山ほどある。それでも、Kindleで漫画を一気読みしたり、なんちゃらという城を強くする育成ゲームにハマってしまい、貴重な時間が奪われている。 わかってるんですよ、頭では。 こんなことやっている時間がもったいない、その間に単語ひとつでも覚えられたのに!かどうかは知らないが、この歳になっても意志が弱いのだろうか。それとも、やりたいことはとことんやらないと気が済まない性格なのか、なぜか一生懸命
仕事柄、移動やホテルの手配をするのには慣れている。有事の際に、どう回避すればいいのか、ということも現場では多々あるので余りあたふたもしない方だと思う。 ただ、今回の一時帰国だけは様子が違うらしい。ある意味、運任せのところがあり、自分がどう努力してもできない不確定要素が多すぎるからだ。 こういうのを人は「無理ゲー」と呼んだりもする。 最初から何もできないのは分かっているのだから、そこはどーんと構えていられれば楽なのに。3年ぶりの子連れ帰国ともなるとそう悠長に構えてもいられ
この本を手にしたのはいつだったのだろう。もしかするとモスクワ行きを決めた2000年だったかもしれないし、モスクワを初めて訪問した後だったのかもしれない。 まさか、この本がこんなに役に立つなんて。 のっけから思い当たる節がたくさんあったのだ。以下、少し引用部分が長いがご紹介してみようと思う。 私は5年余りソ連で暮らしたことがあるが、あちらで生活した経験からいうと、どんな指導者が現れようといかなる改革策が出されようと、あの国が本質的に変わるとはとても信じられないと言うのが正
「今のおまえの穏やかな生活からは、あまりたいした作品は生まれない気がする。」 ある小説を読んでいて、こんな一文に出くわした。はじめはちょっとギクっとして、すぐに思った。余計なお世話、だと。 波乱万丈な人生に身を委ねたい、という気持ちがないわけではない。だが、それには過大な犠牲も伴う。「波乱万丈」なんてそんなにたやすく手に入るかといえばそうではない。 なんでも言うは易く行うは難し、なのだ。 さらに悪いことに、このセリフを言ったのがいわゆる目上の実力者というか、年上の男性
日本だとかなり頻繁に書店や古本屋に出かけていた方だが、ドイツではそれほど定期的に書店へ行かなくなってしまった。走るのと同じで、読書も自分の気持ちのいいペースで読める言語でないと、読んでいてもあまり楽しくないからだろう。 それに本棚に眠っている本もまだまだたくさんあるのだ。 今日は娘とその友人を連れてベルリンで一番好きな大型書店のDussmannへ出かけた。もうすぐギムナジウムへ進級する娘の教材を数冊と彼女の読みたい本を注文していたからだ。せっかく久しぶりに本屋に来たので、
本棚を眺めていたら、ずいぶん前に購入してまだ読んでいなかった「FACTFULNESS」が目に入った。表紙にはこう書かれている。 10の思い込みを乗り越え、データを元に世界を正しく見る習慣 思い込みというのは本当に恐ろしいもので、「こうだ」と刷り込まれたり、思い込んでいるうちにそれがあたかも自分の現実であるかのように振る舞ってしまうことになる。 偏見や差別というものも、もしかするとそんな風に生まれるのかもしれない。 大体、人というものは自分の知っている範囲でしか、物事を