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子守話

もう一度、目を開けてみる。
暗闇に慣れたのか、ぼんやりと薄い灰色の景色が広がる。気が紛れるだろうと思ったが、そうでもない。落ち着かない心を表すかのようにゴソゴソと動き回る。頭の下に違和感。身体をずらしてそれを引き抜く。と、灰色の景色に鋭い光が灯った。
4:48。
時を刻む嫌な音が次第に鮮明になってくる。
ジッ、、ジッ、、ジッ、、ジッ、、、、
――もう、何度これを繰り返したのだろう。
いつまで経っても眠りにつけない。
漆黒に沈んていた部屋の色が、目を開く度に灰色へ近づいていった。
じき、夜が明ける。それなのに、私は得体の知れない不安と、焦りと、不快感と、孤独と、切なさを感じていた。

 物心ついた時から、ずっとこうだった。まだ掛け算も知らない小さな子どもが、夜布団に横たわる度に不安に襲われた。
じっとりと、背後から足先へじんわりと広がっていくような、嫌な恐怖だった。無性に寂しい気持ちになって泣きたくなって、でも理由はどこにもなかった。
“切なさ”なんて表現を知る由もない子どもにとってそれは誰に相談するものでもなく、ひたすらに灰色の世界でそれに耐えるほか術はなかった。

 


 取り残されることに対する、死への恐怖が常にあった。死そのものに関しては不安も、恐怖もなかった。死後のことなんて想像はできず、思い描けないものに恐れは抱かなかった。

でも、愛する人が死んだ。その後の自分は昔から容易に想像はついていた。いや、自分というよりも、自分がどんな世界に支配されるか、分かっていた。真暗闇に落ちることも出来ず、光を浴びに歩んでいくことも出来ず。どちらへの扉も閉ざされた狭間に、ぽっかりと沈んだ空洞の中にたたずむ。抜け出せなくて、抜け出そうともしない自分の姿が脳裏に浮かぶ。
 
死の苦しみを味わうのは、死人ではない。

苦しみを味わうのは、取り残された者たちだ。
何十年も、味わわなければならないのは、その者たちだ。

 どうして、人間には生きるという本能が備わっているのか。
息が詰まる程苦しくても呼吸をし、叫び出したい程不安に駆られてもそれを飲み込み、恐怖と孤独と不安とがドロドロに溶けた液体に引きずり込まれそうになっても、足を踏ん張って歩み続けなければならない。そして世界は、それに気づきながらも知らんぷりをしていつも通り進んでいく。
それなのにどうして、この世界に居座り続けているのだろう。

 「残された者は、一生懸命生きなければいけない。時々泣くことがあっても、たくさん笑って、立派に生きなければいけない。それが、与えてもらった愛への礼儀だから。」
ある脚本家の作品の中で用いられていた台詞を思い出す。

良いのかもしれない。
恐怖と不安と、孤独と切なさに駆られても、
死も生も一歩下がって見つめながら、自分という存在と、愛する者たちとをみつめながら、あいまいな灰色の世界に身を委ねるままで、良いのかもしれない。どちらに進むかは後から決めれば良いし、死が自分を迎えに来るまでずっとそこに居ても良い。

 何度目かの携帯を手に取る。画面の光が部屋の光に溶け込んだ。
世界は光に包まれている。それでも私は、得体の知れない不安と、焦りと、不快感と、孤独と、切なさを感じている。その得体の知れない何かが存在していることも、それを取り払うことは出来ないことも、私は知っている。
それと向き合い続けて、認め続けなければならないことも、それと一生付き合っていかなければならないことも、私は知っている。
全部全部、全て見つめ認めてあげたとき、ぽっかりと沈む空洞の密度が少し高まった気がした。静かな安堵と、ほんの少しの自信という空気が、どこからか湧いてきたからかももしれない。
思い出す、あの人は愛のある人だった。
 
 ベッドから起き上がる。寝れなかったせいで、瞼も身体も重い。それでも起きなければ。今日の私は、光を見つめながら灰色の世界を歩むようだから。

 


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