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昇華〜伝える工夫〜


僕がエッセイを始めた理由は親友の影響によるものである。
親友が書いていた内容を見て僕も普段思考を巡らせていることをエッセイというわりと自由な媒体に言葉として残してみたいと思ったのだ。

思考を巡らすと書けば文体は頭が良さそうに見えるが中身は屁理屈で偏見の塊で面倒くさいやつだと思われても仕方ないものばかりかもしれない。

「なぜ肉が嫌いは許されるが野菜が嫌いは許されない」
これは昔から思っていることだが、世間一般的に考えれば当たり前のこと、説明不要な気もする。
自分の考えが偏屈でマイノリティなのはわかっているが腑に落ちていない。
そういった思考をどうにか言葉にして伝わったら嬉しいなと思って始めたのだがこれがなかなか難しい。
書きながらこれで伝わるのか、自分の熱が不特定多数まで届くのか。
読書はする方だし、深夜ラジオやお笑いは好きで少なからずユーモアはあると自負していたつもりだから面白く書けるかと思ったのだが、、、

僕は仕事で企画書を作成することがあるのだがなかなかスムーズに進まないことがある。上司の壁を突破出来ずにいる。
しかし上司の指摘の中でなるほどと思ったことがあった。
「企画書は誰が見てもわかるものにしなければならない。」
僕が最初に出した企画書は自部署の課題をあげていたのだが部署の特性からくる課題をあげていたので他部署から見ればすぐにピンとこないような企画書になっていたようだ。

この指摘はエッセイにも言えることだと思った。
自分の考え方を知ってほしいと思って書くだけならすぐに出来る。端的にすぐ書けるから。
インスタやTwitterにだって書いてもいいと思う。でもそこにはすでに友人や知り合いを含めたコミュニティがあって、いつのまにか内輪ネタに終わってしまいそう。

この間友人が話していたが愚痴話とかを仲間内で話して同調してもらって安心するのは何にも意味がない、昇華しないのでは?と言う話になった。
確かに仲間内での愚痴話は盛り上がるが全く知らない人からすれば面白くない。
もちろんストレス解消になることもあるから否定はしきれない。

自分の思考の中には喜怒哀楽はあるわけで「怒」もある。怒りの感情をただぶちまけるだけの投稿はストレス発散にしかならない。
どうせ伝えるなら面白く伝えよう、仲間内で終わらせず不特定多数の知らない人たちに自分の思考を伝える努力をしてみる。

みんながみて共感、面白いと思ってもらえるエッセイを作っていきたい。
それが僕にとっての昇華になるのだ。

面白い!と言われたら一番嬉しいが
これを見ている誰かが「こいつは面倒くさいやつだ」と思ったのならそれはそれで成功だ。

自分の本質が伝わったことになるのだから。

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