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令和4年のフィナンシェ事変

令和2年のフィナンシェ事変、なら「にねん」と「じへん」で踏めたのに。
と思いつつ、事実に即したタイトルでお送りしようと思う。

第一の変

最近友人とわが家で食事をしたとき、お土産に「ちひろ菓子店」というお店のフィナンシェを持ってきてくれた。
大阪の福島と心斎橋に店舗を持つ、フィナンシェが主力の洋菓子店らしい。
友人も「前から気になってたんだけど、食べたことはないんだよね」と言っていたので、食後にコーヒーを淹れて、さっそく皆でいただいてみる。


じゅ、じゅわっじゅわだァ……!


ふっくらとした黄金色の表面には、溶かしバターのきらめきがじんわりと浮かびあがっている。香ばしそうなこげ茶色の縁を口に含むと、脳天を揺らしそうに甘い香りが鼻に抜けた。子供のころ、家でクッキーを焼いている最中にオーブンから漂ってきた、あの幸せそのものの匂いだ。
舌先にはもろもろとした生地の感触。恐る恐る噛み取ったその柔らかい塊を奥歯でひと思いに噛みしめると、それは「液体」になる。
いや、正確には個体なのだけれど、私の主観として、それは液体だった。ふうわりとした生地のひとつひとつの粒子が、薄い膜で甘い蜜とバターの香りを抱え込んでいる。その膜は歯が触れると決壊して、溢れだしたバターの芳醇な風味、まったりとした甘さ、アーモンドプードルの香ばしさがじゅわりと味蕾に染み入ってくる。そんな味わいだ。

これはえらいものを頂いてしまった。
私と夫は顔を見合わせ、以来そのフィナンシェを食べるときは、豆から挽いて淹れたコーヒーを添え、小袋から出して小皿にきちんと乗せたうえで口に運ぶことにしたのだった。菓子の名の由来通り、金塊さながらにうやうやしき扱いである。

うやうやしく小皿に乗せたさま

化粧箱に入った8つのフィナンシェはあっという間になくなり、最後のひとつを平らげた翌日から私はしばらく「あれまた食べたいねぇ……あれ……あのフィナンシェ……おいしかったよねぇ……」と鳴く幽鬼のごとき存在に成り果てた。

第二の変

再会のチャンスは意外に早くやってきた。
夫の誕生日を祝うために予約した飲食店が、「ちひろ菓子店焙煎所」のある福島駅至近だったのである。
早めの時間に家を出て、フィナンシェを買ってから夕食のお店へ向かうことにした。

細い路地を抜けた先にあるこじんまりとした菓子店は、お店の外までコーヒーの良い香りが漂っていた。焙煎所、という名前の通り、コーヒーも扱っているらしい。

コーヒー色の看板がシックでかわいい

逸る気持ちを抑えて店内へ足を踏み入れると、奥のカウンターにずらりと個包装されたフィナンシェが並んでいた。
予想した以上に豊富なフレーバーに圧倒される。よくある抹茶やチョコレートのほか、ピスタチオやほうじ茶マロン、ゴルゴンゾーラに、ぶ、VSOP……!?

自分たちの前に数組並んでいたので、順番を待つ間にじっくりと選ぶことができた。
これはリピートして全種類制覇せねば、と思いながらホクホク顔で会計をして紙袋を受け取ろうとした瞬間、店員さんから予想外の言葉が。

「こちら、おまけの焼きたてプレーンです!」

紙袋と一緒に、油紙に包まれた、まだあたたかいフィナンシェが手渡される。私と夫のぶん、ふたつ。試食然と切り分けられている訳でもなく、丸々太ったまるごとのフィナンシェがふたつ。

え、これもらえるの……? 採算合うの……?

ちなみに私たちが購入したフィナンシェは6つである。予想外の大盤振る舞いに半ば呆然としつつお店を後にした。
同じく「おまけ」を受け取った先客が、外に置かれたベンチに座ったり、植え込みのところに立ったりして、思い思いにフィナンシェをかじっている。誕生日のご馳走が控えているのでその場では食べずに、帰ってからいただくことにした。

帰宅してから一息ついて、うきうきと「おまけ」のフィナンシェをかじり、更に驚く。


さ、さっくさくだァ……!


先日口にしたフィナンシェは、他店の焼き菓子と同じく、香ばしくはあるもののあくまでふんわりと柔らかい食感であった。
今食べたものは明らかに別物だ。改めて見ると、琥珀色の縁は角がきりりと尖り、表面は張り詰めて触るとパチッといいそう。
歯を立てるとカリッと小気味いい音と、まるでサブレのようなさくさくした食感を追いかけるように、あのふうわりとした生地が現れる。カリカリさくさくの表面と、しっとりねっとりした内部のコントラストに驚いているうちに、あっという間に食べ終わってしまった。なんだこれ。

調べてみると、そもそもフィナンシェというものは、焼きたてから半日ほどは表面がカリカリさくさくしているらしい。焼き上がったものを寝かせているうちに、全体があの柔らかでじゅわじゅわした仕上がりになってくれるらしい。
皆さんご存知でしたか。

そういえば受け取ったとき、お店の人が「なるべく本日中にお召し上がりください」と言っていた気がする。フィナンシェ自体は2週間ほど賞味期限があるはずなので、少し不思議に思っていた。
普通は生産者でもなければ味わうことの難しいその刹那的なおいしさを、買いに来てくれたひとにも知ってほしい、という思いがあっての大盤振る舞いだったのかもしれない。

ちひろ菓子店、恐るべし

大人になると、子どものころに比べて、食に驚きを伴うことが減っていく。
「ご馳走」が保護者の一存で空から降ってくるような存在であった幼少期に比べれば、今は自由に使えるお金と知識がほんのすこし増えて、生活を自分でコントロールできるようになっている。その気になれば、柔らかなお肉だの、みずみずしい果物だの、珍しいお酒だのを自分の力と判断で手に入れられる。食の経験が積み重なっていく。
そうすると何が起こるかというと、驚かなくなってくるのだ。

スパイスをたっぷり使った異国の料理も、スーパーに並ばないような珍しい肉の部位も、知っている。味の予想がつく。
なるほどこんな味か、と訳知り顔でうなずくようになる。

そんな中で、ちひろ菓子店のフィナンシェには三度、驚かされた。初めて食べたときのおいしさに、お店を訪れたときの大盤振る舞いに「おまけ」フィナンシェをひとくちかじったときの食感に。

恐るべき食べ物だと思う。毎日食べたい。


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