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うちのパキラに触角が生えた

うちのパキラに触角が生えた。

秋晴れの日差しが気持ちの良い休日の午後、水やりをしようとベランダに近づいて、私はそのことに気づいたのだった。
家の中でいちばんあかるい窓のすぐ傍に置かれた植木鉢、こんもりと繁った濃い色の葉の間から、いつの間にかうす緑の新芽が2本、ぴょんぴょんと飛び出ている。生まれたての葉っぱはつやつやとしてごく薄く、レースカーテン越しの日光を透かして輝く。

かたつむりが「つの出せやり出せ」しているようにも、チアリーダーがポンポンを頭上に掲げているようにも見える、ユーモラスな姿。
思わずふふ、と微笑みながらも、どこかで少し憂鬱な気持ちが芽生える。新芽の根本に触れると、力強く伸びた新しい茎に寄り添うようにしていた、茶色く枯れた短い茎がぽろりと取れた。少し前に徒長した葉を切り取った、その名残だ。樹形を整えるために間引いた葉の根本から、再びまったく同じような格好で新芽が伸びてきてしまったのだった。
そんなに徒長したいのかい。
親の心子知らずね、と思いつつも、あまりに愛らしい小さな葉を見てしまうと、再び鋏を入れる気にもなれない。

いいよいいよ、と心の中で話しかける。
好きなようにぐんぐん伸びるといい。水と日光は私が保証してあげるから。

「ほんとうに?」

不意に、声が聞こえた。少しだけ舌足らずな感じのする、少女のような声である。
リビングにいる娘が話しかけてきたのかと振り返ると、彼女はソファに座ったまま、うたたねをしていた。サイドテーブルに置かれた、冷めかけの紅茶。書きかけの書類。幼いころのままのような、あどけなくまろい頬の線。
寝たふりをしておどかそうとしたのかしら。来年高校を卒業予定の娘は、ときどきそういう子供っぽい面を見せる。確かめようと近づくと、すぅ、すぅという寝息が微かに聞こえた。
聞き間違いか、と、再びベランダに向き直る。と、掃き出し窓の外側、バルコニーの柵の上に、大きなからすが留まっているのが見えた。いやだ、と呟いて、窓のそばに寄る。私が近づいたのを認めても、からすは逃げる様子がない。つやつやとした黒い首をひねって、翼を軽く広げて見せる。

「嘘じゃない?」

またあの声だ。娘のものとはあきらかに違う。
少しだけ背筋が寒くなる。

「だってあの子はずっと、切られているじゃない。伸びても伸びてもそのたびにすぐ、切られているでしょう。だからほら、あんなに、きれいな形」

目の前にいるからすがこれ以上なく不吉なものに思えて、引き戸をがらりと開け、威嚇のつもりで足を踏み鳴らす。からすはびくともしない。円い眼で私を見据えている。
窓をぴしゃりと閉め、娘が眠るソファに近づく。起きて、この声がただの幻聴だと笑い飛ばしてほしかった。もしくは自分の、ほんのいたずらだと。

名前を呼んで、肩をゆすっても、娘は目覚めない。すぅ、すぅという微かな寝息。サイドテーブルに置かれた、冷めかけの紅茶。書きかけの書類。幼いころのままのような、あどけなくまろい頬の線。

「ね、本当は切らないと、気が済まないんでしょう」

なんなんだ!

声を振り払うように憤然と立ち上がり、私は台所へ突進する。急ぐあまりに足がリビングのゴミ箱をひっかけて倒し、中身がラグの上に散乱した。生き物のように屑籠からぬるりと滑り出したぴかぴかのフルカラー印刷のパンフレットの表紙、その軽薄な色遣いが私の目を射る。私の暮らす場所からは遠い、あまりに遠い都会の大学の名前が書かれたその下には、品のないワンピースを着込んで小憎たらしく微笑む若い女の写真。

娘とはちっとも似ていない。

台所の引き出しから、私は探していたものを掴み出した。ずしりと重く、鈍く光る、大きな調理鋏を。
挑みかかる気持ちで、大股でリビングへと、ベランダの窓際へと戻り、パキラの小さな鉢を見下ろした。

「ほら、やっぱりね」

そうだ。その通りだ。
観葉植物の葉が徒長するのは、日光が不足しているからだと聞く。不健全に伸びた茎を切ってあげて、水をたっぷりやって、もっと日当たりのよいところに置いてやろう。

それがいちばん、あの子のためになるはず。

しょきん、しょきんと2本の新芽を切り落とす。できるだけ根元から、他の葉を傷つけないよう、慎重に。
あまりに幼く頼りない早緑色の葉は、何ら抵抗を示さずに、わずかな手ごたえさえもなく、あっけなく落ちた。

外を見やると、あの大きなからすは消えていた。私はほう、と息をつく。

今しがた切り取られた茎の断面から、じわりと赤い液体が滲み出した。それはひとしずくのつややかな珠となって盛り上がり、溢れ、他の葉をつう、と伝い落ちて土の中に消える。

娘はまだ、目覚めない。サイドテーブルに置かれた、冷め切った紅茶。書きかけの書類。幼いころのままのような、あどけなくまろい頬の線。あたたかく柔らかな秋の午後の陽光が部屋の中を照らす。










育てているパキラの徒長が治んないよー、というところから妄想が広がって、こんなお話が生まれてしまいました。わが家のパキラの触角は元気で、ぐんぐん葉っぱが大きくなっています。

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