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正解なんてないんだと、思いたくって書いている

たいていの物事には正解があると思っているタイプの人間だ。

それは主義主張や信条といったものでは決してなく、どちらかというと抜け出せない思考の癖というべきもので、私はそのことに少なからずコンプレックスを感じている。

その癖のルーツになっているのは、勉強しか取り柄のなかった少女時代だと思う。
運動音痴でユーモアもリーダーシップも持ち合わせず、そのうえ人の感情やその場の空気を推し量るのがたいそう苦手で、自覚のないうちに人を苛立たせたり、戸惑わせたりしがち。ごく一部の優しい友達としかうまくコミュニケーションをとれなかった私にとっては、テストで高い点数を取ることができる、ということだけが、学校の中で自分の存在を許してもらうための命綱のように思えていた。

授業中に教師から当てられた瞬間の、もし間違えてしまったらどうしよう、という強い強い恐怖を今でも覚えている。
クラスの人気者のあの子なら、たとえおかしな間違いをしたとしても教室の中には柔らかい笑いが起きて、空気が明るくなることだろう。
でもそれがもし私なら? 「こんなこともわからないのか」という教師やクラスメイトの目線が、身体じゅうにつきささるのではないだろうか。

勉強を唯一の拠り所にしてしまった反動で、「間違えてしまう」ということはすなわち、それだけ命綱が細っていくことだととらえてしまっていた。

だから小中高と勉強にはきわめて真面目に(というよりは、半ば強迫観念的に)取り組み続けたわけだけれど。
いわゆる5教科が代表するような「正解」がはっきりした教科は対策を取りやすかった。問題は夏休みに出される、自由研究や読書感想文などの自由度の高い宿題だ。
これは、いったい「何」が正解なんだ?

自由研究は夏休み明けに教室の後ろに展示されることになっていたので、これまでの周りの提出物を踏まえてそれなりにチューニングができる。
けれど、読書感想文はクラスメイトのものを読むことができない。思案の末、なんとなくこれが正解なんじゃないかというような仮説を自分で作って、それに沿わせるようになった。

選ぶ本は課題図書か、わかりやすい教訓や感動が得られるような「子どもらしい」ストーリーの小説を。スポットを当てるのは主人公の、道徳的に正しい行動で、それを自分の経験に引き付けたうえで「何を学んだか」を書けばよし。文体はなんとなく先生ウケがよさそうで文字数も稼げる、ですます調で(我ながらイヤな子どもだなあ)。

ここまではっきりとは言語化していなかったけれど、概ねそんな具合のことを考えていたと思う。教師にも褒めてもらえることが多かったので、このやりかたが正解だ、という確信は年々強まっていった。

全然楽しくなかったので、文章を書くのは嫌いだった。他の勉強と同じように、やらねば命綱を失うタスクとして、それはそこに在った。

***

転機が訪れたのは、中学2年生の冬だった。
同級生が読書感想文の大きな賞を取ったということで、市が発行した文集が配られたか、学校が該当のページをプリントして配ったか――詳細は覚えていないけれど、その受賞した感想文を読む機会があったのだ。

えっ、と思った。こんな風に書くの、「アリ」なの?
その文章の中でメインになっていたのは、その小説の中で主人公と対立している登場人物についての、なぜ彼がそのような人格を持ち、行動をとるに至ったか、という考察だ。その本から学んだことや、感動したポイントや、自分の生活にどう生かしていくかということにはまったく触れられていない。400字原稿用紙5枚分のスペースいっぱいに、ただあるキャラクターについて分析し、考えぬいた結果が広がっていた。

内容もさながら、文体にも衝撃を受けた。中学生でも、こんな文章を書いていいんだ。難しい言葉をいっぱい使って、だ・である調で、まるで――まるで、図書館の本棚にいっぱい並んでいる「大人が書いた小説」みたいな文章。なんて格好いいんだろう。

別に子どもが子どもっぽくない文章を書いても、いいんだ。

そのことがずっと頭に残っていて、その次の夏は『ファウスト』を感想文のネタに選んだ。
子どもらしくはなく、道徳的でない場面も多く、ついでに小説ですらない。それまでの私なら、選ぶことを思いつきもしなかったと思う。
けれどそのころ最も読むのに苦労した作品であり、それなのにまったく読むのを諦めようとは思わないような不思議な吸引力がある本だったので、その吸引力がどこにあるのかを文章にしてみたいと考えた。

そうすれば私の感想文だって、あの子みたいに評価してもらえるかもしれない――という下心も、書き始める前には確かにあった。
けれど、書き始めるとそれどころではなくなった。それまで自分が書いていたような、「子どもらしい」「正解の」枠の中に予定調和な言葉を当てはめていくような作文と違って、自分がほんとうに考えていること、感じていることをそのまま文章にするというのは、なんて難しいんだろう。なんて難しくて、少し怖くて、そして楽しい行為なんだろう!

それまで埋めるのに四苦八苦していた2,000字分の升目が、その日はとうてい足りなかった。

***

それ以降も、「正解」を必要以上に求めてしまう私の癖自体は変わらなかった。
はっきりした答えのある授業だけでなく、総合学習の時間で「自由な意見」を出し合うような場面においても、「正しくて、人から馬鹿にされないような意見」はなにかと考えすぎて、結果まったく発言できなかったりもした。

年を重ねる中で人付き合いへの苦手意識を概ね克服したからか、「正解」を選ぶことを命綱のように感じるようなヒリヒリした感覚は、大学に入学してしばらく経つころには薄れていた。
それでも、新卒で就活をするときの私は「誰もが知っている、有名な大企業に入ること」こそが正解だと思っていたし、働き始めてからは業務にいち早く習熟すること、やりがいのある仕事を見つけること、高い成果をあげること、同年代よりも早く昇進すること、そういったことが正解だと思っていた(これに関しては、正直今でもその価値観から逃れられていない)し、結婚をして子どもを持つことこそが「人としての正解」だと思いこんだ時期もあった。

そういったものものを目指すこと自体は、別に悪いことでもなんでもない。
私が抱えている問題点は、それらを自分自身の価値観や向上心のあらわれとして志向しているのではなく、「それが正解なのだから、そうならなければ」という思考の癖に振り回されてしまっているにすぎない、というところだ。

「自分は何か生き方を間違えていやしないか」という不安が、ときどき襲ってくる。今でも。

当然だと思う。英数国のペーパーテストみたいに「正解」がある事象なんて、人生で起きる出来事の中にはそうない。そして逆説的だけれど、そのことを腹落ちさせてしっかりと自分の価値観に沿った生き方を選んでいる人こそ、私の目からはまごうことなき「正解」に見える。その「正解」はそこらじゅうに、何パターンもあるから、私には結局「本当の正解」が何か、ちっともわからない。わからないから、不安だ。

不思議なことに、文章を書いているときはその不安から逃れられる、ということに最近気づいた。

理由のひとつは、noteのアカウントがほとんど匿名の場である、ということ。ここで私が書くことは職場や社会といった公的な場での私の評価にはまったく結びつかないし、ここを読んでくれている家族や友人は本当に限られた、親しい人ばかりなので、倫理に悖る内容でもなければここに書く文章の内容だけで私を見限るような展開にはならない(と信じている)。

けれどそれ以上に、中学2年生の冬に衝撃を受けたあの読書感想文によって、「文章には正解がない」、ということだけはしっかりと腹落ちしているという点のほうが、私にとっては大きい。正解がないというよりは、正解を求めることの意味をあまり感じない、というべきか。

文章を書いているときの私の意識は、今自分が考えていることは何なのか、それを目に見えるかたちに起こすにはどういった言葉が適切か、ということにほとんど振り向けられている。自分の書くものが「正解」かどうかということよりも、自分の中にあるものと出力される言葉との間の距離をどれだけ近づけられるか、結果として出来上がる文章の響きやリズムをどこまで美しいものにできるか、といったことのほうが、圧倒的に大切。
だって「正解」かどうかを気にした瞬間、書くことはなんにも楽しくなくなってしまうということを、私は中学生の時に学んだから。

***

……というようなスタンスで常に書き続けられればよいのだろうけれど、そんな一見格好いいことを言いつつも、実を言うと幻のように現れる「正しい文章」に流されかけることもある。スキをたくさんもらえる文章、たくさんの人にフォローしてもらえるような文章、note編集部の注目記事に選ばれる文章、エトセトラエトセトラ。

それに流されないのは私が強い意志を持っているからではなく、そういった文章をいくら具現化させようとしても、結局はちっともうまくいかないからだ。むしろ、誰にでも好かれるような「正解」の文章を目指そうとするたび、そこからは遠く遠ざかっていくような感覚がある。まったくよくできているものだ。

そして、そう簡単に正解の文章なんて書かせないぜ、という得体のしれない声のようなものに挑み続けるうちに、いつのまにか書く話題の幅も少しずつ広がってきた。
この文章もそうだ。少なくともnoteを始めた初期には、こんな風に自分の弱点について書くようなことはできなかった。書くこと、それを読んでくれる人がいることが、少しずつ、私自身の気持ちのあり方も変えていってくれているような感覚がある。

私のこのみっともない癖は、世間的にはまったく「正解」ではないだろうけれど。それでもこうして4,000字程度の文章を生み出すための糧にはなったのだし、書いているうちにあの頃の自分も結構頑張っていたんだなあ、と、出来の悪いわが子をねぎらうような心持になった。

こんなふうに書き続けていたら、いつか「書くこと」の外でも、正解なんてないんだと心から思えるようになるだろうか。
そんな希望を少しだけ抱きながら、日々益体もない文章を書き散らしている。



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