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【短編小説】人類救済(後編)

※前編はこちら



 よちよち歩きができるようになってすぐのある日、カインは朝からぐずっていました。イヴが口にお乳を含ませようとしても、柔らかな果実を与えても、体をよじっていやがります。木陰の草のベッドに寝かせても眠ることができないようで、ぐずぐずと泣くばかり。やっと少しだけ飲んだ果実の汁も、しばらくすると吐き出してしまいました。
「カイン、どうしたの? どこか、体が悪いの?」
 イヴが抱いて顔をのぞき込んでも、まだ言葉を持たない小さなカインは答えることができません。
 その夜、カインの体じゅうに赤い発疹が出ました。かゆいのか、それとも痛いのか、カインは全身の力をふりしぼるようにして泣き叫びます。やがて熱も出始めると、泣くエネルギーが尽きたのか、はぁはぁと喘ぐような呼吸に変わっていきました。
 アダムが川の水に浸した大きな葉っぱで体をぬぐってやっても、青々とした草の汁を小さな口に入れてやっても、カインはいっこうに回復せず、苦しそうに息をするばかり。手足をばたつかせる力もないようでした。
 そんなことが、三日三晩続きました。イヴはずっとそばについて、カインから片時も離れませんでした。アダムは、草原を、川を、森をかけまわっては、草や魚や果実や獣をとって帰りました。少しでもカインの体に効くものをと思ったからですし、眠らずカインに付き添っているイヴに栄養をとらせるためでもありました。
 四日目の朝、カインは苦しそうに顔をゆがめたまま、動かなくなりました。それまでの消え入るような息さえも、していませんでした。
 火のついたように熱かった体が、少しずつ冷たくなっていきます。イヴは、そんなカインを抱きしめて、何度も何度も、叫ぶように名前を呼びました。けれども、カインは二度と目を開けることはありませんでした。
 アダムはイヴの肩をそっと抱き寄せ、声を殺して涙を流しました。
 日が高くなり、日が沈み、やがて夜の闇が訪れても、イヴはカインを抱きしめたまま離しません。このままではイヴまで体を悪くしてしまうのではないかと心配になり、アダムは静かにゆっくりと声をかけました。
「イヴ、カインをそろそろ土に還してあげよう。そうして、イヴは何か少し食べて、少し眠ろう。そのほうがいいよ」
 イヴはうつろな目で、けれどもどうにかうなずきました。
 ふたりは若草色の葉でカインの体をくるみ、カインがよく目で追っていた極彩色の鳥の羽で飾りました。それから、森の入口の、空も草原も川も見渡せる場所に埋葬し、白やピンクやオレンジの花々で囲みました。

 世界は、輝かなくなりました。
 イヴとアダムがカインの眠るそばでひっそりと過ごしていると、蛇がやって来ました。茶色い体に灰色の斑点のある、あの蛇です。
 いつかやって来たときと同じように、蛇は一心不乱に体を動かしていました。そして、土がこんもりと盛られ、花で丸く囲まれた場所を見て、やはりいつかと同じように「あぁ、遅かった……」とうなだれるのでした。
「君たちは、丘の大樹の実を食べたことはないんだったよね?」
「前にも言ったけど、あの実を食べたことはないよ。それがどうしたんだ?」
 アダムは、こんなときにあんな実のことなんてどうでもいいじゃないかと、少し気を悪くしました。
 けれども、蛇はアダムの強い口調にもひるまず、頭をしゃんともたげて、きっぱり言いました。
「もし本当のことを知りたければ、君たちはぜひともあの実を食べてみるべきだよ」
「本当のこと?」
「そうだよ。この世界のことや、君たちの赤ちゃんがどうして死んでしまったのかを知りたければね」
 それまでアダムと蛇のやり取りをぼんやり聞いていたイヴが、蛇の言葉に驚いて身を乗り出しました。
「どういうこと? カインの病気について何か知ってるの?」
「ううん、ぼくも、病気のことを詳しく知っているわけじゃないよ。でも、あの実がきっと教えてくれる。あの丘の大樹の赤い実は、真実を教える智慧の実なんだ」
「でも、おじいさんが、あの実を食べると死んでしまうって」
「それは嘘だよ。食べても死んだりしない。おじいさんは君たちに本当のことを知られたくないから、そんな嘘をついたんだ。ごめんよ、前にここへ来たときは、もうお腹の中に赤ちゃんがいるみたいだったから、どうしても強く勧められなかったんだ。だから、赤ちゃんの幸運を願うしかなかったんだけど……」
 イヴとアダムは、丘のてっぺんへ駆けてゆきました。
 世界を見守るようにそびえる大樹を、ふたりはしばし見上げました。四方に伸びた枝には、赤い実がたわわになっています。
「どうしようか。食べてみる?」
「わたしは食べる。本当のことが分かるなら、知りたいもの」
 イヴは少しも迷わず答えました。
 もしかすると、嘘をついているのが蛇のほうで、おじいさんの言ったことが正しいのかもしれません。けれども、カインを失ったいま、自分たちが死んでしまうかもしれないとしても、それがいったい何だというのでしょう。イヴは、蛇の言ったことに賭けてみる価値はあると思ったのでした。
「分かったよ。それじゃあ、ぼくも食べてみよう」
 アダムは樹に登り、手近になっている実を取ってイヴに渡すと、自分のためにもうひとつ取りました。
 ずっしりとした実は、まんまるで、つややかで、濃い赤色をしています。ちょっぴり固い皮ごとひとくちかじると、しゃりしゃりとした食感と、甘酸っぱい香りが口いっぱいに広がりました。
 ふたりは無言で、果実を食べました。
 そして、芯だけが残り、最後のひとくちをそろって飲み込んだ瞬間、ふたりの頭の中に大きなヴィジョンが広がったのです。

 ふたりの両眼が本当の意味で開いたのは、そのときでした。
 ヴィジョンは、この世界のすべてを伝えてきます。
 この世界は、ときどきどこからともなくやって来る得体の知れないおじいさんが、創造したのでした。空も大地も、草花も鳥も獣たちも、そしてイヴとアダムも、すべてはおじいさんによって生み出されたのです。
 けれども、これから生まれ出る人間たちは、おじいさんによる創造ではなく、みな、イヴとアダムの子孫なのでした。イヴとアダムが作り、生み育てる人間たち。彼らがまた子を作っては生み、その子らもまた、成長すると子を作っては生むのです。そうして人間は、何千年もかけて何十億という数に増え、世界中に散らばるのです。
 智慧の実を食べたふたりには、いま、真実のいっさいが見えていました。
 人間たちには、喜びや楽しみや幸せが、たくさん待ち受けています。イヴとアダムがそうであったように。ですが、人が生きてゆくには、苦しみも多いのです。
 人間は、互いに殺し合うようになり、何千年たってもやめられません。肌の色や暮らしかたや生まれた土地が違うというだけで、情け容赦なく殺します。この世界を創造したおじいさんを崇める人たちと、崇めない人たちの間でも殺し合いが起きますし、それどころか、同じようにおじいさんを崇める人たちの間でさえ争いが起き、殺し合うようになるのです。
 殺してしまうまではいかなくても、人を平気で蔑んだり、家畜のように扱ったり、暴力をふるったり、苦しんでいても放っておいたりします。いつもはどんなに友だちや家族や隣人を愛し、大切にする人でも、そうなってしまうのです。それが、イヴとアダムの子孫である、人間たちなのです。
 また、暴力のないときでも、別の苦しみが待っています。それはたとえば、病と死というものです。人間は、いろいろな病に襲われます。それは、どれも痛みやつらさをともないます。もしも、運良くずっと元気に生きることができたとしても、最後は必ず死ななければなりません。生まれた者はみな、死ぬようさだめられているのです。カインは死に向かって三日三晩苦しみましたが、誰もが三日三晩の苦しみで済むとは限りません。場合によっては何ヶ月も、あるいは何年も、死ねないまま苦しむことになるのです。
 人間たちは、ときどきは目を覚まして、このままではいけないと考えるようになります。殺し合いも、ほかの暴力も、病も、死んでいく苦しみも、どうにかしなければと。そして、長い時間をかけて、いくつかは解決にこぎつけます。それでも、多くの苦しみは解決できないままですし、ひとつを解決すれば、それによって新たな問題が起きてしまうしまつです。
 ふたりがいる大地は、本当の姿を見せました。そこはもはや、楽園ではありません。あるときは大嵐が来て、海が荒れ狂い、川が氾濫し、木々がなぎ倒されます。そうかと思えば、あるときは日照りが続いて、大地が干上がり、草木が枯れ、動物たちは飢えと渇きで死んでいくのです。
 イヴとアダムの子孫たちには、病と死と暴力のほかに、そのような自然の脅威も待ち受けているのでした。
 ヴィジョンを見て、イヴは叫びました。それは、世界中に響き渡るような、慟哭の叫び声でした。
「わたしが……わたしたちがあんなことをしなければ! カインを生まなければ、カインはあんなに苦しまずにすんだのに! わたしのせいで……わたしのせいで!」
「でも、ぼくたちはあんなに幸せだったじゃないか。カインだって、幸せだったはずだよ」
「それが何だっていうの! わたしたちがカインを生まなければ、カインの幸せが存在しないことなんて何の問題でもないのに! わたしたちはカインが生まれる前から幸せだったのに、欲を出して自分たちのためにカインを生んだ! カインのためにカインを生んだんじゃない! 自分たちの欲のために、カインを生んで苦しめた! 何てことを……」

 ある夜、カインのお墓を新しい花で飾っていたときのことです。
「ねえ、アダム」と、イヴが言いました。
「うん」と、アダムが答えました。
「わたし、いまでもアダムのことが大好きだよ」
「うん、ぼくもだ。ぼくも、イヴのことがいまでも大好きだよ」
 ふたりは並んでカインの眠る場所を見つめ、ふふふと小さく笑いました。
 あたりは静まりかえり、ふたりが初めて体をつなげたときのような、おだやかな夜でした。
「ねえ、アダム」と、またイヴが言いました。
「うん」と、アダムが答えました。
「わたし、考えていたんだけど」
「うん」
「わたしたち、もう子どもを作らないほうがいいと思う」
「そうかな」
「そうなの」
「イヴがそう言うなら」
 数百億、数千億の人間たちの苦しみは、すべて、イヴとアダムが子を生み出すことから始まるのだと、イヴはもう知っています。アダムも知っているはずです。
「それで、わたし、もうひとつ考えていたんだけど」
「うん」
「わたしたち、別々の場所で暮らして、もう会わないほうがいいと思う」
「そうかな。でも、ぼくはイヴに会えないと、さみしいよ」
「わたしも、アダムに会えないとさみしい。でも……」
 イヴとアダムは、お互いをとても愛していました。そして、お互いの体はとても魅力的でした。ですから、もう子どもを作らないと決めていても、万が一にも間違いが起こらないとは限りません。何せ、イヴとアダムは人間で、人間とは大変に欲深い生き物なのです。

 それぞれ遠くへ行く前に、イヴとアダムにはやるべきことがありました。
 ふたりは、あのおじいさんを待ちました。
 智慧の樹の実を食べたら死ぬ、と騙した、あの嘘つきおじいさん。イヴとアダムに真実を隠し、子どもを生ませて人間たちを苦しめようとした、あのおじいさん。創造主であるにもかかわらず、カインが苦しんでいても何もしてくれなかった、あのおじいさんです。
 幾日が過ぎたことでしょう。どこからともなく、おじいさんがやって来ました。
 イヴとアダムは、森の木々の間に隠れました。
「アダムとイヴよ、どこにいるのだ」
 おじいさんの声と足音が近づくと、アダムが木の陰から飛び出て、おじいさんを羽交い絞めにしました。
 そして、あらかじめ大きな獣の死体から抜き取っておいた牙で、イヴがおじいさんの右腕を切り落としたのです。これでもう、人類が創造される心配はありません。
 それから、イヴは森の奥へ入り、アダムは海のほうへゆきました。

 こうして、イヴとアダムと、真実のために助言してくれた蛇のおかげで、人類は救われました。
 つまり、もう誰ひとり生まれないことによって、もう誰ひとり、苦しまずにすんだのです。
 もう誰ひとり生まれなかったので、このお話が語り継がれることはありません。けれど、それこそが、イヴとアダムが願ったことなのです。
 めでたしめでたし。

〈完〉
 



最後までお読みくださり、ありがとうございます。
本作は、詩誌『ココア共和国』2023年3月号に掲載された詩を、小説として書き直したものです。


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