全人類「できる」こども

義務教育の間、そして高校までをなんとか耐え抜いて大学(もしくは高専等)まで行ってやっと本当に「勉強」ができる。そんな子は少なくない。
それまで、小中学校では、大人が決めた学習を、大人が決めた時期に、大人が決めた場所でしか、勉強させてもらえなかったから。

義務教育はそもそも誰もが勉強できるように用意されている場なのに、義務教育の期間が一番苦しいこどもたちが実はたくさんいる。


誰もが勉強できるように学校は存在しているのに、こどもたちはしたいように勉強ができていないということがある。

いろんな本末転倒と、日本らしい型はめ主義が錯交しているそこに、ありのままに生きようとするこどもたちはハマれなくて、それ自体は良いも悪いもないのに、大人のルールの下では「悪い」に分類されるので力の弱いこどもはドロップアウトせざるを得なくなる。


本当は人間全員、思うままに知りたいことを勉強したいし、そのための基礎知識やベース学問として国算英理社を勉強することはたとえ得意でなく好きでなくても楽しめたりする。


確かにこどもが自分で勉強したいと言い出す時期は読めない。



一旦視点を宇宙人くらい離して見てほしい。

学校の宿題は税金ではないし、担任は財務大臣でもないのに、宿題をしないと失格者であるかのように、担任の言うことは勅諭であるかのようにそれらが当たり前に存在してしまっている。
ちょっと、気持ち悪くないですか。

そのように振る舞う教師と、そのように学校を崇める保護者。両者共犯の中で苦しいこども。

誰のための学校なんだろう。

本来は勉強したいこどもたちに与えられた環境じゃなかったんだろうか。
主役のはずのこどもたちが、いま被害者になり得ることが起こったりしている。
飛び級できればもっと知りたいことが学べる子もいるし、留年してもその学年の単元を繰り返したいこどももいる。
それらは、この国では「良くないこと」だったり「失敗」だったりする。
みんなと一緒じゃないことは、悪だし「失敗」になる。


親も学校も、こどもが自分から
「勉強したい」
と言うのを待てない。
そしてたぶん、こどもがそんなん言い出すとは信じていない。だから先回りしたい。先回りして人生の先輩として、「勉強しなさい」と言いたい。


親は、幼い頃からこどもに十分な環境や世話を与えすぎているから、こどもは学習に飢えることができないし、
学校はそもそもこどもを信じていないから校則や大人の力でこどもを縛る。
教師が生徒を信じていたら校則はないし、実際に校則がなく優秀な生徒しかいない学校は存在している。


小学校や中学校に、
大学みたいに自分の意思を受講に持ち込める環境があれば、そのポテンシャルを伸ばせるし勉強が本当に心から楽しくなる子がたくさんいるのに。
たとえばギフテッドだってそう。
そうだし、ギフテッドだけ守るのもちがう。
だれでも全員、何かに突出してるものだ。


そうなると大人の体面とむだな縛りが多いこの義務教育の9年間がなんともったいないことかと思わされる。
従わないことは、悪なのだろうか。こどもは強い知的好奇心や学習欲求を持ちながら、けれど狭いルールの中ではそれを追求できずふてくされて従わないということもあるだろう。

基本、人はほっといても学びたいし、学びたいことに必要なら学びたくなかったことも前向きに学べる。
それが基本的な人間の姿だし、もちろんこどもも人間なんだから同じ。

こどもは、決して
人間として「大人のできない版」ではない。

こどもを、
できる
ものとして向き合うのは、
ほとんどの大人にはたぶん難しいんだと思う。

親なら、我が子を自分では何もできない新生児のころから世話をし、つまりできないことを全てやってあげてきており、それを急にできる者として我が子への視点を変えられないのだろう。

学校は、
「きみたちできないからおしえてあげる」
のノリが強すぎる。
教えるのが仕事だと思ってる教師が多すぎる。
教えるのではなく、こどもが学びたくなるように仕向けることを仕事だと思って欲しいと自分は強く願う。


こどもを信じるのとは、
こどもが「できる」と信じること。

勉強だけじゃないし、
本人がやりたいと思ってしまったことは、
それはその子ができること。
何歳で何を言い出しても、それはできることだし、必要なこと。
できることだから、やってみたいと言い出してる。


親が勝手に2歳から公文をやらせても、
毎月毎月の月謝を長年(株)公文教育研究会に搾取されるだけ。

暗算や計算、漢字、英語、本人が急にやりたいと思ったときに親は投資した方が、2歳から始めるより断然コスパは良い。だって、やらされている公文と自分の興味でやる算数では、吸収力が桁違いだから。

塾系のCMは煽る。
日本は落ちこぼれの状態にアレルギーが強すぎるから。
けれど落ちこぼれたこときっかけで自発的に勉強を始めることもある。
落ちこぼれさせないようにコントロールする周囲が、本当は本人にとって余計なお世話になっている。

髪型、服装、学校に来ること、学校内に居ること、教師の言うことをきかせること、教師が出した宿題はやらないといけないこと、
それを守らせることばかり重要になってるから、それから逃げ出したくなるこどもが増えているだけ。
生きるために必要なことは、制服を着崩さないことなのだろうか。制服着崩す子でも、お年寄りに席を譲る。果たしてこの子はそれでも学校に従わないから悪い子なのだろうか。

こどもというものは経験が足りず無知なのだから大人を信じて従うべきだ、

思い込んでいる大人が、
いま不登校のこどもの多さにあたふたしているだけ。

いじめでも発達の子でもギフテッドでも、学校に行かないという本人の意志がそこにある。行きたくても行けないのだとしても行かないという決定は本人がしている。
自分を信じてくれる人は学校にも家にもいないから、自分で自分をひたすらに信じてあげている。


こどもが自分を信じて自分の学びたいことを求める姿が、昨今、以前より見られるようになっただけ。

それを問題ある不登校児と捉えているのは、視点を変えられないで、過去の大人だけが居心地の良かったゐにしゑにしがみ付いているだけ。


こどもを変えようとしてもむだ。
こどもは、自分に正直に生きているだけ。
そして人間の本来の姿がそうである限り、他者によって変えられることは暴力に等しい。

学校や家庭で狭くなっている視野を、宇宙レベルに拡げて目の前のこどもを「できる」者として改めて見てみてほしい。