銭湯にて老人のマントヒヒと遭遇した話
重力と戦い続けた戦士の姿が銭湯にはある。四十三℃の熱湯に浸かり、日々の疲れをいやす。そもそも、無職である俺にとって日々の疲れなどない訳だから、流れ落ちるのは無為な時間と、それに伴って削れ行くプライドであった。
「嗚呼長老……。今日もご立派で」
俺の隣でくつろぐ五十代の常連、パチスロが趣味の飯島さんが声を上げる。長老と呼ばれた老人は、銭湯の戸をゆっくりと開け入ってくる。頭は禿げ上がり、皮膚という皮膚はすべて重力に負けているが、その堂々たる姿は長老という名に相応しい。
「今日もご苦労様です」
飯島さんは立ち上がり、長老に一礼。長老はそれに片手で答えると、洗面台の前に腰掛けた。右側に水滴を垂らす、飯島さんのマントヒヒ。狂っているのは承知の上であるが、外の世界と比べれば屁でもないのである。あたり一面、老人のマントヒヒ。
最初にこの銭湯に足を踏み入れた夜、催眠術のように揺れる”それ”が何度も悪夢としてフラッシュバックした。ただ、悪夢を耐えてもなお、通い続けたい魅力がこの銭湯にはある。
「ぁああ……。みなさんおそろぃで……」
長老が手拭いで股間を隠そうともせず、俺たちの入っている湯船に足を入れる。飯島さんによると、長老はほんの十年ほど前まで、このあたりの夜の店に通い詰めてはそこで働く女性を落としまくった、という伝説があるらしい。この伝説は”魔笛”という名前で語り継がれている。
「ぁあ……。おわかいのもいっしょでえ……」
爺さんのぼせて死んじまうんじゃないか、と不安になるがもう二年である。
「どうも、お久しぶりです」
長老のマントヒヒをちらりと見て一礼する。俺の視線に気づいたのか、長老はホッホッホと笑った。
「しんぱいするでなあい。ここでねっとうあびせてりゃあいずれこうなる」
長老は既に四十三℃の熱湯で真っ赤になったマントヒヒを自慢げに見せつける。隣で小さい拍手をする飯島さん。
「いやあ良い物見せてもらえました。これで今日も勝てそうです」
トータルで負けているに決まっている飯島さんが、思ってもないことをつぶやく。
そう、俺たちは現実逃避に浸っているのだ。別に風呂が気持ち良いわけではない。ただただ、下らぬルールを作り上っ面の笑顔を張り付けているのだ。俺はずっと無職だろう。飯島さんは負け続けるだろう。長老が女性を落としまくったなんてのも嘘なんだ。嘘だと分かっていながら、へらへらと笑いあう、冷徹な大人の関係がそこにはあった。
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