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03.11

これは、私自身の記録であり10年の節目。
とてもとても長くまとまりのない文章ですが
もしも目に止まって読んでいただけたら
大変嬉しく思います。


2011年3月11日
忘れられない10年前のあの日
私の19歳の誕生日。


看護学生として
地元の茨城で暮らしていた私は
その日、落ちたテストの再試験を受けた後
家に帰る途中だった。
誕生日の夕飯は焼肉に行こうねって
家族と約束していたから、ダイエット中の私は朝からバナナ1本しか食べず。笑 
↑この選択を後々本当に後悔するんだけどね


同じく再試験を受けた看護学校の男友達が
学校の最寄りまで車で送ってくれたのだが
私はその道中で震災を経験した。


10年経っても色褪せないあの時見た景色。
目の前で大きく左右に揺れ、
横転しそうになっているトラック
バラバラと崩れる住宅街の煉瓦
しゃがみ込む人々と悲鳴
あちこちで聞こえるクラクションの音…


突然の出来事に焦り、とっさに車から降りようとした私を「今降りちゃだめ!」と静止してくれた友達。本来なら、駅で下ろしてもらうところだったのだが「せっかくの誕生日だから、なんか甘い物でも食べて帰ろうよ!」と駅を遠のいたところでの被災だった。
彼の思いと判断がなかったら私はきっと
ガラスの破片があちこちに散らばった駅に
1人取り残され、帰宅難民だっただろう。
いや帰宅難民どころか、もしかしたら
駅ビルの中で倒壊してきた物の下敷きになっていたかもしれない。
動く電車の中で死を覚悟したかもしれない。
今思うと本当にゾッとする。

見渡すだけでも地元付近は大きな被害を受けていると感じたが、東北が今までにないほど壊滅的な状況になっていると知るのはもう少し後のことだった。



信号が止まり、運転する人々もパニック状態の中。友達は渋滞の道を7〜8時間ひたすら運転して私を家まで送り届けてくれた。
こんな状況だけどね、って言いながら
車の中で色んな話をしてくれて
どれだけ勇気づけられたことか。
本当に、感謝している。

スマホが普及する前のガラケーを使っていたあの頃。何もしていなくても充電が残り30%、20%と減っていった。
どれだけ家族へ電話をかけても繋がらず
やっと繋がった時には「大丈夫、無事だよ!生きてるからね!送ってもらってるから安心してね!」この一言を伝えた時点で充電が切れた。
ほんの数秒だったけれど、電話の奥で、母が泣いているのがわかった。
私まで泣きそうになった。


家に帰ったのは深夜だったけれど、母と祖母は寝ずに待っていてくれて、帰ってきた私を
泣きながらぎゅっと抱きしめてくれた。
生きているということをこれほど実感する瞬間は、人生でもそう多くはないだろう。
父、祖母、母、弟たち。
家族がみんな無事であったことを
心から喜び安堵した。

父は消防士だから、地震が起きた時点で
既に家にいないことはわかっていた。
後々、父に会うことができたのは
震災から数日経ってからのことだった。
忙しい勤務の間に少しだけ家に戻ってきて
「まだまだ大変だけど、みんなで頑張ろうな。もう少しだからな!」と、家族を勇気づけて
また仕事に戻っていった父のあの日の姿は
私の脳裏にしっかりと焼き付いている。

こうして思い起こすと
10年経った今でも記憶は鮮明で
断片的な記憶になってしまったところもあるけれど、それでも 生きている ということに
身が引き締まるような思いになる。


3月11日が、たまたま誕生日だっただけ。
たまたま、看護師を目指していただけ。

それでも、その偶然は
運命だったのかもしれない。
29年前の3月11日にこの世に生を受けた私には、きっと生きるを伝える宿命があるはず。
私は生かされたこの命を、
看護師として人として誇りを持って全うする。
そして、できる限り言葉にする、文章にする。
それが今の私にできる最善だと
28歳の私はそんなふうに思う。

看護師になってもうすぐ9年目。
私はこの仕事が大好きだ。
苦しくて辛くて身を削るような思いをして
泣きながら離れたこともあったけれど
やっぱりここに戻ってきた。
特別頭も良くないし、仕事ができるわけでもないけれど、どうしたって看護師がいい。
もしかしたらこの思い自体が、神様から私に与えられたものなのかもしれない。


誕生日は、与えられる日ではなく
与える日でありたい。
いつからかそう思うようになった。
産んでくれたこと、支えてくれたこと
命を守ってくれたこと。
全てが今の自分に繋がっているから。
たくさん感謝をして生きていく。
ごめんなさいではなく
できる限り、ありがとうを伝えていきたいな。

28歳の私、ありがとう。
また明日から29年目もよろしくね。

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