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読書記録「街道をゆく 十津川街道」司馬遼太郎著

朝日文庫
2008

朝日文庫の新装版。
十津川街道が週刊朝日で連載されたのが1977年。

NHKの1999年の番組を見た後に読み始めた。

奈良といってもかなり南の山の方で、独自の文化を持っているという漠然としたイメージの十津川村。
改めて地図で見ると自分が思っていたよりずっと南のほうだった。

坂本龍馬の暗殺者が十津川郷の者だと名乗ったというエピソードから始まる十津川街道。
このエピソードだけで読者の興味は十津川にぐっと持っていかれる。
用心しているはずの者をも安心させる十津川郷士とはどんな人たちなのか、そして十津川村とはどんなところなのだろうかと。
さすがとしかいいようがない。

旅のルートは河内から天辻峠を抜けて五條へと降り、そこから十津川へ向かう。
天誅組が辿った道を辿る旅にもなっている。

米が取れないために長らく免租地だった十津川村。

十津川郷の場合、置き捨てられていたがために、かえって逆な行動に出る原則をもっていたといえる。つまり天下を統一しようとする大勢力に抗せず、逆にその側に兵を貸すことによって自分たちの別天地(免租と共和制)を守ろうとした。

免租地であることを特別な地である誇りとし、さらに兵を提供しても恩賞を貰ったことがないことも誇りとする土地の人たち。
そして、基本的には山で暮らしをたてているが、明治維新を迎える時には全員が支族だったという不思議な土地。

お上が助けてくれないぶん、公の意識が強い。例えば、橋も皆で金を出し合って建設してきた。その培われて続いてきた意識を”十津川共和国”と呼んでいる。
このあたり、隣であっても免租地ではなかった大塔村とは大きく人びとの意識が違っている。

旅を通して、五條へ向かうタクシー運転手から案内をしてくれている市口さんまで、何とも言えない魅力にあふれた人物が多かったのも印象的だった。
言葉遣いが独特で面白かったけれど、今はさすがにこんな言葉遣いは残っていないのだろうか。

村を守ってきたその歴史の長さと人々の営みを考えずにはいられない。

対岸の山壁に橙々色の電灯が一つ見える。その灯をみているうちに、
-よく守ってきたものだ。
という、そんな言葉だけではとても覆えないような、郷民の思いに対する感傷が不意に胸にあふれたしまった。
守る、といっても。外界から守るだけの富があるわけではない。むしろ逆に貧を-奪りにくる勢力もなかったが-下界から懸命に守ってきたというのが正解であろう。

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